正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

子規の地球儀  (第186回)

ずっと前にも書いたような覚えがあるが、正岡子規は慶応三年の生まれで、翌年は明治元年。したがって明治の年号は、子規の年齢と共に進んでおり、例えば明治三十四年は、子規や同期の夏目漱石が満34歳になる年だから分かりやすい。

随筆集「墨汁一滴」(もとは新聞日本の連載記事)は明治三十四年の一月十六日から始まっている。子規は秋の生まれなので、まだ満33歳だが、翌年に他界するから病状すでに痛々しい。子規は職業作家であったことはない。ひたすら新聞記者だったから、こうして晩年には口述筆記になっても記事を書いている。


第一回の1月16日は、文庫本にして16行。主な話題は正月に関連した二点です。まず、お飾り。病床に巨大な鏡餅を供える余地はなかったのか、彼は巻紙などを入れておく状袋箱(紙製の箱や袋など)に寒暖計をのせ、それに「小さき輪飾」(わかざり)をくくりつけて、いとめでたしと書いている。

羊歯(しだ)の葉が、末広がりの意味なのか、左右に開いており、その下に橙を据えた。今はもう、田舎のうちの実家でさえこういう風習はすたれた。私が子供の頃は、今のオレンジ色のことをダイダイ色と呼んでいました。近所のダイダイの樹にトゲがあって、モズがバッタなどを「はやにえ」にしていたものだ。僅か半世紀でこんなに日本は変わった。


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房総半島のシダ


世界はもっと変わっただろう。子規の橙の横には、その実と同じくらいの大きさ(三寸とある)の、地球儀が置いてある。これは寒川鼠骨がくれたもので、鼠骨は「二十世紀の年玉」と言って贈ってくれたらしい。

寒川鼠骨が子規の文章によく出てくるのは、同郷の伊予生まれであり、後輩同士の虚子や碧梧桐とも交流があり、それに新聞日本の記者でもあったから、子規とは同僚なのだ。それにしても、20世紀のお年玉とは洒落ている。明治三十四年は、1901年です。


子規が「直径三寸の地球をつくづくとみてあれば」、日本が赤で塗ってある。日清戦争で清国に割譲させた台湾も赤で、その下に「新日本」と書いてあったらしい。その次が興味深い。「朝鮮満洲吉林黒竜江」は紫で塗ってあり、なぜか北京や天津といった地名がない。子規は「余りに心細き思いせらる」と感想を書き添えた。

まだ歩けたころ、彼は日清戦争に従軍した。そのころは清国も、戦争するくらいの元気があったのだ。そのあとボロボロにされた。特にこの前年、1900年に北清事変があり、それ以降、欧米日本の各国軍が駐留するようになった。支配していた李氏朝鮮も、日本の属国のようになり、のち1910年に併合される。


この地球儀を書いた人は、こういう前代未聞の有り様を描きようがなかったか、それとも間もなく様子が変わるだろうと見たのか、あやふやのままで残したのだろう。私が生まれた1960年はアフリカ諸国が続々と独立した記念すべき年であった。

当時、実家に地球儀と貯金箱を兼ねたもの(コインを入れるスリットが、太平洋に空いていた)があって、アフリカ大陸の半分ほどが、黄色に塗られたまま、国名も国境線も書かれていなかった。事情は子規の年玉と似たようなものではなかろうか。この続きを青字で転載します。


ニ十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何に変わりてあらんか、そはニ十世紀初めの地球儀の知るところにあらず。とにかく状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀は、これ我が病室の蓬莱なり。

 枕辺の寒さ計りに新年の年ほど縄を掛けてほぐかも
    
                        (一月十六日)


20世紀末の地球は、さすがの子規も想像できそうもないほど、いろいろ変わっていた。日本は仮に彼が生きていたら怒り狂ったであろう阿呆な戦争をしたあげく、新日本の台湾は取り上げられ、朝鮮半島は不自然な形で南北二つの国になってしまった。蓬莱か...。

21世紀末の地球儀は、どのようなものになるのだろうか。前々回に朝鮮少女の服を見なくなったと書いたが、後に聞いたところによると、チマチョゴリが切られる事件が続いた数年前に、制服を変えざるを得なかったらしい。この点については、若い人たちのほうが変な差別意識も持たずにいるようなので頼もしい。

子規はジャーナリストだったから、国際感覚も豊かだし、想像力にも富んでいる。小さな寝床で病みながら、その夢はヒマラヤをかけめぐり、夏草が匂い立つ野球場に思いをはせる。子規の短歌は野球文学の最高峰だろう。殿堂入りするだけのことはある。2002年のことで、彼の没後百年にあたる。




(おわり)



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ムクゲ  (2019年8月1日撮影)




 九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす  子規













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