正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

車上所見  (第191回)

今回から、もう一つ、子規の随筆の感想文を掲げます。好きな文章なので丁寧に読む。最初に読んだのは、いまも所蔵している筑摩書房の「ちくま日本文学040 正岡子規」の収録作品です。

もっとも、この文章の後半はすでに、何回か断続的に話題にしているのですが、いちいち確認するのも面倒なので、重複を恐れずまとめて読みます。

この作品は、ネットでは「里実書房」さんの力作がありますので、以下の通りリンクを貼ります。文末の「■このファイルについて」にあるように、初出は、おなじみ「ほととぎす」。明治三十一年。

bunko0.sato296.com


まず時期について、季節は冒頭にあるとおり秋。最初の段落に、天長節についての原稿を書いたと記しており、当時の天長節明治天皇の誕生日、いまの文化の日にあたる11月3日。筑摩書房の作品も最後に、「十一月」とある。

当時の晩秋は気温も相当、下がっているはずだが、この日は晴れた。稲刈りは終わったか、稲刈り女に顔見知りはいないか、あぜ道の草木は色あせてはいないか、あれこれ気になる。


しかし、「いたつき」(病気)が悪化するのも困る。きっかけは、寝床から見えるトンボだった。「今日も朝日障子にあたりて蜻蛉の影あたゝかなり」とは見事な表現なり。

後に子規の病床の窓は、確か外の小園が良く見えるようにという仲間や家族の気遣いでガラス窓に代わったはずだが、このときはまだ障子だったらしい。おかげでトンボがとまり、影が見えた。トンボも気温が下がると、あまり飛び回らなくなり、よくとまります。


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(2019年10月28日、出先の長岡市にて撮影)



子規は外で遊んでいる連中が羨ましい。近所の上野や浅草、団子坂というのは今も交差点の名に残る坂道で、子規庵の西方にあり、近くに森鴎外が住んでいたところだ。団子屋は今ないと思う。

おそらく次の「車呼びてこ」というのは、妹お律に人力車を呼びにいかせたのだろう。子規は母お八重には敬語を使って書く。あいにく車は出払っていていなかった。この陽気である。


昼飯時まで働いて、一時過ぎになり車が来た。人力車の車夫に背負われて乗ったというから、子規はもう歩けない。なるべく静かに走らせているから少しのことで体も痛む。鶯横丁はかれの住む街で、前回の鶯橋の欄干は、この横丁から音無川を渡る位置にあったのかもしれない。

さっそく名も知らぬ紫の小花を見て喜ぶが、すぐに興味の的は音無川に面した八百屋に移る。その前を通るたびに、果物の商品を確認しているらしい。さすがは食欲男、甘いもの好き、花より団子。


音無川の中では、男らが染め物を洗っている。ということはドブ川ではなさそうだが、子規は大根の切れ端やゴミが漂っているのが気に入らず、この勤務中の男たちに命じて流させたく思う。

子規は観察に忙しい。山茶花(さざんか)の赤い花が咲いている。もうこの季節には、東京でさざんかは咲きます。続いて、檜木笠を見て喜ぶ、

 いかめしき音や霰の檜木笠  芭蕉


この一節に、「笹の雪の横を野へ出づ」とある。「笹の雪」は江戸時代創業の老舗で、今もある豆腐料理店。

先回ここで土産品を買ったとき店の人に聞いたら、創業のころは今より北のほうにあったということだったので、子規が見たのはその古い方の店で、音無川沿いにあったものだと思う。
www.sasanoyuki.com

今はもう民家や商店がずっと続くが、当時はこのあたりから野に出たというので、江戸時代と余り変わっていないのだろう。さて、先は長いので今回はこのあたりまで。



(つづき)


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谷中霊園山茶花  (2019年11月9日撮影)


























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