正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

柳通り  (第195回)

前々回で終えたつもりだった、子規の随筆「車上所見」の感想文に関連して、追加の話題ができましたので加筆します。冒頭で子規は人力車に乗り、音無川に沿って進み、「笹の雪」(今もある豆腐屋さん)の角を曲がったと書いています。それに続く地名からして、俥は左折し北上したようです。

この音無川は先回も書いたように、農業用水・生活用水のための人工河川で、今は暗渠になっています。暗渠の上は当時の流路どおりに曲がりくねって進む車道になっており、子規庵のあたりから、かなりの距離、台東区荒川区の区境になっています。


このあたりは私の散歩道で、上記の笹の雪が当時あった四つ角で曲がらずに直進すると、かつて音無川だった区境の車道は、分岐して左に折れ、一方で子規庵から進んでくる道は、そのまま直進します。このT字路から先は、「柳通り」という名がついていて、実際に街路樹がこの辺では珍しく柳の木になっている。

柳通りの名称は昔、都電が走っていた金杉通にぶつかって終り、ただし道路そのものは、金杉通りの反対側に伸びており、そのまままっすぐ歩いていくと、樋口一葉たけくらべ」の最後に出てくる鳳神社前に出る。酉の市の熊手で有名です。道路の逆方面は上野の寛永寺や、日暮里駅まで通じています。古い街道です。

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この柳通りや、その延長上の道沿いには、飲食店が多い。神社や寺院を結び、遠く吉原にまでつながる川沿いですから、昔からそういう店が多かったのだろうか。さすがに日暮里駅前や大通り近くは、ファスト・フードやコンビ二エンス・ストアなどのチェーン店が多いのですが、その間の住宅街には、小料理店やパブ・スナックなどが散在している。

それに郵便局と消防署がある。これらは、東京の明治・大正の地図を見ても、ほとんど場所が変わっていません。むかしの町や村の中心街にあったはずです。この近辺は、なぜか度重なる東京の空襲の被害をあまり受けておらず、古い街並みの痕跡も残っているようです。


先日は散歩がてら、柳通りから適当に路地に入りました。コロナ・ウイルスの感染拡大中ですので、人通りの少ない小道を選んで歩いて行ったら、うちの親と同じくらいの年代の女性が自宅前の小庭の手入れをしてみえました。

特に黄色い花が目立ったので、写真を撮らせていただいたついでに、しばらく立ち話をしてまいりました。この花は、カキツバタなのかショウブなのか、彼女も知らず私も分からず、帰宅して調べると、どうやらキショウブと呼ばれる外国産らしい。環境省関連のサイトに、「侵略的外来種」と書かれている。

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その立ち話のなかで、彼女がここに嫁いできたころは(戦後まもなくか、もっと前か)、木造の家が立ち並んでいて、もう景色は一変してしまったらしい。そこまでは、どこも同様なのだろうが、その先がうらやましい。

毎日、あちこちの家から三味線の音が流れてきて、芸者さんだか芸子さんだか、とにかく華やかな娘らが歩いていたそうだ。三味は彼女たちの自宅や、教室があって、そこから練習の音が聞こえていたそうです。子規の別の随筆にも、三味線の師匠さんの家が出てきた覚えがある。


彼女たちの住まいはこの路地裏だったとして、では勤め先はどこだったかというと、柳通りの道沿いに、そういう店が立ち並んでうたらしい。それで今も夜の店が多いのだろう。このご時世、営業自粛で苦労してなさるに違いないが、ここはひとつ頑張って、根津の歴史を後世に伝えてください。

この柳通りや元音無川の道沿いには、小さな神社仏閣が多いのも特徴です。ごく普通の住宅街の中に、明治十五年建立なんて刻んである鳥居が立っています。散歩の途中、驟雨に襲われ、雨宿りをしていたら、近くのおじさんが使っていないからといって、傘をくれました。



(おわり)



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花の多い街でもある  (2020年4月23日撮影)








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