正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

筑紫  (第3回)

 吉村昭著「三陸海岸津波」の第1章は、「明治二十九年の津波」という題である。明治の二十九年は西暦でいうと1896年。日清戦争の2年後にあたる。三陸の漁師たちが「前例をみない大漁」に湧いていたこの年、まだ梅雨が明けていない6月、当時の日本観測史上、最大の津波が同地を襲った。

 被災地の住民の22%が亡くなったという。陸軍は仙台の第二師団から、軍医・工作隊・憲兵隊を現地に派遣した。そして、「海軍では、軍艦「和泉」「龍田」「筑紫」の三艦を派遣し、海上に漂流している死体の捜索に当たらせた」とある。これらの船舶は日清戦争に前後して買ったばかりの船だった。


 そして、八年後に再び重大な使命を帯びる。文春文庫の黄色い背表紙の「坂の上の雲」をお持ちの方は、最後の第8巻の終わりの方にある、日本海海戦当時の「連合艦隊編成表」という一覧表をご覧になったことがあるだろうと思う。決戦時の主だった軍人と軍艦がリスト・アップされている。

 この中に「和泉」「龍田」「筑紫」の名がみえる。和泉は第六戦隊の巡洋艦、龍田は第一戦隊の通報艦、筑紫は第七戦隊の砲艦となっている。三隻とも無事、戦勝後に凱旋し、晴れて横浜沖の観艦式に参加したという記録を見たことがある。今回は筑紫の物語だ。


 龍田と和泉は日清戦争に間に合わなかったのだが、筑紫先輩は参戦している。近代日本が初めて編成した連合艦隊の一員として、日本海を渡った。ただし、日清戦争の海戦は日露戦争と異なり、海上で兵力を分散した。このため最初の豊島沖海戦の際、筑紫は現場にいなかった。

 それどころか軍艦もおらず、戦闘したのは巡洋艦だけで、「吉野」「秋津洲」「浪速」の三隻だった。吉野については、別途、話題にしたい。秋津島の艦長は上村彦之丞、浪速の艦長は東郷平八郎で、先述の日露戦争の編成表に、いずれも司令長官としてその名が掲載されている。どちらの戦争でも忙しかった人たちであった。


 豊島沖海戦での最大のエピソードは、東郷艦長がイギリス国籍の船舶を撃沈した件だろう。しかも、まだ宣戦布告前だった。大騒ぎになったらしいが、東郷の判断が国際法上、正しかったという理由だけで不問になった。彼の国際法至上主義は、日本海海戦の二日目にネボガドフの艦隊と対峙したときにも表出している。

 このとき海軍少尉だった秋山真之は、小船の筑紫に乗り組んでいて、豊島沖にはもちろん縁がなく、更に伊藤連合艦隊司令長官黄海海戦において、弱船を切り捨てて少数精鋭で臨むという戦法を選んだため、またも仲間はずれにされた。しかし、読むのも辛い最終決戦の威海衛では出撃している。


 戦後の筑紫は「須磨の灯」という古典文学的な名前の章に出てくる。筑紫は砲弾を浴び、「いかにも戦場帰りといったすさまじい形相」で、真之らを載せて呉の港に戻ってきた。

 ちょうど従軍記者として清国に渡航し、その取材から血を吐きながら戻った子規が故郷の松山にいると知り、真之は帰省して子規を見舞っている。その家の二階には教師として赴任中の夏目漱石がいた。

 筑紫の被弾のシーンは、NHKが数年前に制作した力作ドラマ「坂の上の雲」に出てくる。原作でもこのため戦死者3名を出したと書いてあるが、ドラマではその3人のうち一人は真之の指揮命令を受けて作業を始めた途端に巻き込まれて戦死したという設定になっている。司馬さんの観察では、すでにこの当時から真之は「人の死から受ける衝撃が人一倍深刻」であった。先の東郷と対照的である。


 このあと筑紫は修繕を受けて、二年後の津波被害の捜索活動に当たったわけだ。この船はイギリスで造船されたものだが(日露戦争時も日本は自国で大型戦艦を造れず、ロシアは自前であった)、元々は日本が発注したわけではない。チリが三隻、注文したのだが、ボリビア・ペルーの連合軍との戦いに勝機が見えて来たのか、金が尽きたか知らないが買うのを止めた。

 うち一隻を日本が買って筑紫と名付け、残りの二隻は中国が買ったが、いずれも黄海海戦で日本軍に沈められた。なお、南米の戦争は硝酸ナトリウム(通称、チリ硝石)の鉱山の奪い合いであったらしい。この鉱物は火薬・爆薬、肥料、ガラスの光沢材などに使われるというから産業革命以降に脚光を浴びて、産地のつかみ合いを招いたのだろう。


 子規の家は当時どの貧乏長屋でもそうだったように、当初は障子張りだった。彼はまだ多少の身動きができたころは、この障子に映るトンボの影を見て喜んだりしていたのだが、寝たきりになると障子では少し部屋が暗い。当時はとても高価だったそうだが、周囲は子規のためにガラス窓に張り替えている。南向きの庭が見える部屋で静養していた。

 ちなみに、黄海海戦で主力となった軍艦六隻は、旗艦の「松島」に加え、「千代田」「厳島」「橋立」「比叡」「扶桑」である。厳島は前出の和泉とともに、日本海海戦の序盤で命知らずの索敵行動に出た。扶桑には広瀬武夫が乗っていたらしい。彼は戦後しばらく、真之と二人で「水雷屋」をやっている。そして筑紫は日露戦争でも一仕事することになる。




(この稿おわり)





明治時代の朝顔を復元したそうです。
(2014年7月20日撮影)






朝な夕なガラスの窓によこたはる上野の森は見れど飽かぬかも  子規



































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