正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

龍田  (第4回)

 中学校の冬休みだったか国語の宿題で、百人一首をすべて覚えよという拷問があった。それでも当時は記憶力が良かったのか(たぶん人生経験が浅くて記憶の容量がまだ残っていただけだろう)、百首とも最初の五文字を聞けば残りは暗唱できるところまで行った。

 今やそのほとんどは忘れたが、かなり早い段階で覚え、今でも忘れずにいるという珍らしい一首が在原業平の歌だ。理由ははっきりしている。拷問用のテキストに、あろうことか落語の話題が出て来たからだ。それは千早という花魁に惚れた龍田川という関取の悲恋の物語であった。

 
 竜田川斑鳩あたりを流れる実在の川であり、日清・日露の両戦役に参戦した戦艦「龍田」はこの河川名に由来する。私は竜田揚げが好物です。前回の話題に出した筑紫や吉野と同じく、イギリスのアームスロトング社で造船された。はるばる日本に引っ張って来たのは、対馬沖で第三戦隊の司令官を務めた出羽重遠。日清戦争の直後に日本に着いた。

 約十年後の日露戦争のときは第一戦隊所属の、ということはつまり旗艦三笠の「通報艦」になっている。情報伝達の係りである。通報艦について司馬遼太郎はどこかで「メッセンジャー」という言葉も使っていた。旗の信号だけでは伝達しきれない複雑な情報を、艦隊に伝えるときの連絡用の船なのだろう。


 竜田は日本海海戦の海戦図を見ると、先頭を行く三笠の左後ろ側を少し離れて寄り添うように進んでいる。こういう表現は失礼なのかもしれないが、うちの近所にある西郷さんの像に並んで立っている犬と似ていて微笑ましい。だが、戦場ではそういう暢気な配置ではない。

 天気晴朗なれども波高しが、本当に砲撃術で勝る日本にとって有利だったとしたら、三笠に集まるはずのロシアの砲弾は命中率が低い道理である。その流れ弾が散らかったら、近くの敷島や龍田がとばっちりを受ける恐れがあろう。龍田のような小型船は一発でも命中すれば大ごとだ。

 こういう船に乗って強敵を迎え撃つというのは、並外れた覚悟が必要になるはずだが、戦史はなかなかそういう乗組員の心情などは伝えてくれない。ともあれ龍田は戦場で縦横無尽に動いたらしく、例えば一旦は三笠から離れ旧主の出羽が率いる第三戦隊に加わり、ロシアの巡洋艦対に集中攻撃をかけて、これを蹴散らすのに一役買っている。


 もっとも軍艦龍田の活躍場面でことのほか印象的なのは、文春文庫でいうと第5巻の「海濤」という章である。旅順港に立てこもったロシアの極東艦隊は、陸軍がやっとの思いで占領した二百三高地からの砲撃でほとんど湾内に沈んだ。ただし、運の良い戦艦が一つ残ってしまった。

 この船の名はセヴァストポーリという。現時点では世界中で最も危険地帯になっているウクライナクリミア半島にある古戦場でもあり(トルストイもここで参戦している)、ナチスドイツが攻めた要塞名でもある。この旅順での最後の艦長は、「ロシア旅順艦隊きっての勇将、フォン・エッセン」であった。これでは海軍の作戦が終了しない。

 
 戦艦セヴァストポーリは旅順港内の老虎島半島というところに身をひそめて動かなくなった。日本軍は水雷攻撃を仕掛けたが、もともと岸に近いところにいたからだろう、沈んだかどうかも分からないため偵察隊を組んだ。「ところが、故障が出た。」と、「坂の上の雲」は語る。東郷さんが自分で観に行くと言って聞かないのであった。

 湾内にはこれまで両国の大勢の優れた軍人を海に沈めた機雷が残っているかもしれない。砲撃されたらどうするか。極めて危険な任務だが、東郷長官は真之が選んだ龍田に乗って出かけて行った。その首にはご自慢のドイツ・ツァイス社製の双眼鏡が掛っている。一番遠くまで見えるのだから、司令長官が斥候役になった。


 龍田で航行中は、守備のため後を追った巡洋艦二隻の操船振りをながめていたらしい東郷さんは、現場に着くと龍田の艦上でしばしセヴァストポーリを観察した。すでに同行の将兵たちが肉眼で見ても分かるほどに、同艦は傾いて舷側も下がり切っている。

 だが、長官は自分の目で確かめるために死地に赴いたのだ。やがて彼は、「沈んでおります」と部下に敬語で報告し、旅順の海戦は終わった。最前線にいないと気が済まないらしい。対馬沖でもそうだった。やれと言われてできるものではない。きっと将器というのは、こういうものを指すのだろう。そのご加護もあって龍田は帰路も無事であった。


(この稿おわり)





梅雨時の東京  (2014年7月22日撮影)






千早ぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは

                         在原業平朝臣



























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