正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

信濃丸と病院船アリョール  (第5回)

 もう一隻の「和泉」に話を進める前に、「信濃丸」に寄り道したい。この両艦はバルチック艦隊に接近遭遇した一番乗りとその後任なのだ。信濃丸は他の「丸」が付いている船と同様、民間から戦時徴用された仮装巡洋艦であった。

 軍に召し上げられて気の毒にとも思うが、そもそも信濃丸の持ち主である日本郵船ほか三菱財閥は、軍事物資の製造・販売・運搬で巨大になった企業体である。お互い様なのだ。


 私事であるが大学4年生の就職活動時、9月になって私は候補を二社に絞った。というか、そうせざるを得ないほどに他からの感触が悪く、また時間もなくなってきた。

 第一志望がこの日本郵船で、その理由は単純極まりなく、「竜馬がゆく」の影響で海援隊と郵船は遠縁であるというその一事に過ぎず、最初の面接で志望動機を説明するのに困った。第二志望は金融機関であったが、いずれにしろ先に内々定をくださった方に行こうと決めていたのだ。


 そして、最初の電話は金融機関から架かって来た。元々、熱心に誘ってくれた先輩も複数いる会社であったから異存は無かった。同社に赴き内定の諸手続きをし、家族を安心させようと電話ボックスから実家に連絡を入れて驚いた。郵船から先ほど電話があって「ぜひ」という話であったらしい(ただし内々定だったかどうかの確証はない)。

 もしも携帯電話があったなら、私の人生は変わっていたかもしれない。だが、下宿の呼び出し電話に留守の私が出なかったため、第二連絡先の実家に架電してくれたのだろう。このあと、ちょっとした混乱はあったが、結局、私は三菱紳士にはならなかった。後悔はない。


 今回は吉村昭「海の史劇」の助けも借りる。こういう小さな船舶の記録は、「坂の上の雲」よりもさすがは吉村作品、「海の史劇」のほうが多分に詳しい。バルチック艦隊(正確には、第二太平洋艦隊と記されている)が、出撃後まだヨーロッパの沿岸を進んでいたころトラブルが起きた。

 巡洋艦「ドミトリー・ドンスコイ」の士官3名が、病院船「オリョール」の看護婦のもとに忍んで行こうと短艇を出したところで捕まってしまったのだ。3名は本国に強制送還となった。結果的にはおかげで命拾いしたと言えなくもないが、地元ではこの上ない恥さらしとなったことだろう。

 ちなみに「ドミトリー・ドンスコイ」の名誉のために補記すれば、同艦は日本海海戦の最終段階まで激闘している。また、事件についての「オリョール」の看護婦さんの感想は書かれていないが、艦隊の大遠征中、病人・死人・発狂が続出したらしく病院船は苦役船舶となった。


 さて、この「オリョール」が、「坂の上の雲」に出てくる「アリョール」であろう。司馬さんの「スワロフ」も吉村さんは「スヴォーロフ」と書いており、私はロシア語を全く解さないが、きっと「ア音」と「ウ音」の中間的な発音をする母音があるのだろう。ちなみに、同艦隊には同じ名前の病院船と戦艦が所属していてややこしい。

 信濃丸は民間の商船だから、攻撃部隊には属することなく、他の仮装巡洋艦と共に長崎県五島列島付近で監視役になった。わが家の日本地図にも載っている「白瀬」という小さな岩礁の周辺である。この地図には、灯台を表すお日様のような地図記号が書き込まれている。灯台があるということは見晴らしがよいということだ。お互いに。

 

 信濃丸とオリョールの邂逅は、文春文庫では第8巻の「敵艦見ユ」という章に出てくる。1904年5月26日、霧が濃くわずかに月明かりが雲の合間を流れる。成川撥艦長は、艦橋でまどろんでいるところを叩き起こされた。

 正体不明の船が見える。信濃丸は長いこと海上の船の影を凝視した。敵の旗が見えた。「白赤白」だったらしい。月が逆光で見えにくいため、信濃丸はうんと時間をかけて相手の後ろに回り込んだ。時間をかけすぎて月光どころか夜が明けた。

 そして小さな信濃丸は敵艦隊のど真ん中に紛れ込んでしまったことを知る。信濃丸は先ず転舵一杯で右に急旋回し、全速力で敵陣から離脱しつつ、戦後その開発者に「これのおかげで勝った」と秋山真之が感謝を捧げに行ったという最新式の無線電信機「三十六式」で最新情報を発信し続けた。

 
 この「敵の艦隊、二○三地点に見ゆ。時に午前四時四十五分」をおそらく真っ先に受電した軍艦が、すぐ近くを哨戒していた巡洋艦の和泉だった。信濃丸は汽船に過ぎない。交代すべく和泉は発信地点に急いだ。この間、信濃丸は功を果たしたにも拘わらず、危険を顧みることもなく艦隊にコバンザメのごとく付いて回り、「敵針路、不動。対馬東水道を指す。」という、敵艦見ユに勝るとも劣らない最高度の情報を発信している。

 オリョールは「坂の上の雲」によると、信濃丸に向かって照明の電気灯を点滅させたとの記述があり、「こっちを仲間だと思っている」と成川艦長が語っている。他方で、「海の史劇」にあるアリョールの記録では、「商船アリ」となっていて少し解釈が異なっている。商船といえば確かに元来商船であり、お化粧を見破ったようなものか。病院船アリョールは堂々、対馬沖の戦場に行った。拿捕されて佐世保に連行されている。



(この稿おわり)




入谷の朝顔市で買いました。
(2014年7月21日撮影)


















 寄せるさざ波 暮れゆく岸に
 里の灯ともる 信濃の旅よ

           「千曲川」  五木ひろし













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