正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

根岸の芋坂  (第8回)

 しばらくの間、最終章「雨の坂」に出てくる「ひとつの情景」を読む。書き出しは1905年10月23日に、連合艦隊が横浜沖で観艦式を行ったという出来事 である。龍田も和泉も筑紫もその栄えある場に居並んだが戦艦三笠がいない。佐世保の港に沈没したままになっている。

 多数の死者を出した佐世保停泊中の三笠の爆発事故について、「坂の上の雲」では殆ど原因追究はされていない。通説だったという火薬の変質による自然発火だろうと簡潔に触れているのみだ。実は他説があり、そちらに拠ると小説の味わいを甚く損なってしまうからかもしれない。


 その他説とは、吉村昭が「海の史劇」でかなり辛辣な感じで紹介している。酒に酔った三笠乗り組みの海軍兵の不始末が原因だと明記されている。私は真相を知らない。ただ吉村さんが資料を大切にした人だということを聞き知っているのみである。

 彼は直木賞を受賞できなかった。このようなことをはっきり書けば、保守的な文藝春秋社に嫌われても仕方がないのかもしれない。ともあれ、観艦式では敷島が替わりに旗艦を務めた。その翌々日の出来事が、雨の坂のラスト・シーンである。秋山真之は三笠の一件で心の傷を負ったままのはずだ。そんなとき人はどこへ行くのか。


 真之は暗いうちに家を出たという。根岸に行くと言い残して出掛けたらしい。以下はずいぶん詳しく具体的な書き方ので、丸々フィクションでない限り(この小説に全くの作り話はないと作者は語っている)、複数の手記などに拠らないと書けないはずだ。先ず私は、このころ真之が何処に住んでいたのか知らない。

 「坂の上の雲」のどこかで、品川に彼の自宅があったと読んだ覚えがある。品川なら幕末以来、海軍の本拠地だ。しかし引っ越したかもしれないし、海戦の直後だから自宅に居たとも限らない。ただし、暗いうちに出たということは、根岸から相当の距離がある場所だろう。やはり品川か。


 この当時、すでに東京には列車が走っている。ただし、電化されたのも国有化されたのも山手線が環状になったのも、日露戦争の何年か後のことだ。この当時はまだ汽車である。もっとも、子規が存命のころから既に品川と上野は線路でつながっている。かつては東京駅経由ではなく、渋谷・新宿・池袋・上野の順で動くのが主だったのだ。

 このころ機関車を動かしていたのは日本鉄道という私鉄会社で、最初は高崎線常磐線東北本線といった北関東や東北への鉄道整備から始めたらしい。初代の社長は薩摩出身の吉井友実。この人は当時の呼び名「幸輔どん」として「竜馬がゆく」に出てくる。


 幕末に勝海舟が神戸海軍操練所の経営者だったころ、後に「坂の上の雲」に出てくる人たちでいうと、日清戦争時に初代連合艦隊司令長官となった伊藤祐亨や外務大臣を務めた陸奥宗光がここで教わっている。近代日本の育ての親の一つとでもいうべき訓練施設だろうか。

 そこの「塾長」だったらしい坂本龍馬が、このころ京の薩摩藩邸に西郷隆盛を訪ねている。初対面なのに西郷が客間に出ていくと座布団に坂本がいない。この男は他藩の藩邸の庭で鈴虫を獲っていたのだ。龍馬に虫かごがほしいと言われ、西郷はやむなく幸輔どんを走らせている。


 根岸の病床で子規が書いた雑文の中に、「夏の夜の音」という短い日記のような文章がある。この中で子規が車両の数をかぞえたり、今のは下りの電車だなどと詳しく書いているのが、この日本鉄道の「汽缶車」のことで、早くも19世紀から営業している。

 真之は品川から根岸となると徒歩ではちょっと辛い距離なので、この鉄道に乗ったか人力車を使ったか。交通手段は書いてないが、「途中、根岸の芋坂と呼ばれているあたりの茶店で一休みした。」とある。上野駅から寛永寺あたりを抜けて歩いてきたかな。


 この「いもざか」は今もある。拙宅から大通りを突っ切れば徒歩2分。上の写真でいうと、角の店が上記の茶店だが、この話題は次回以降に回す。T字路の角から向こう側に伸びている上りの道が芋坂である。芋坂に関しては、ざっと検索しただけでブログ等にたくさん記事が出ているのだが誤解が多い。

 この角から線路までの短い坂と書いているのが多いのだが、それはあくまで現状の、しかも坂の一部分に過ぎない。鉄道敷設のため上野の山、古くは「忍ケ丘」(しのぶがおか)と呼ばれた武蔵野台地の先端をごっそり削ったため、芋坂を含む根岸や日暮里近辺の坂もみんな分断されてしまったのだ。


 線路の反対側には、ちゃんと今でも坂の上半分が残っている。この坂道は森まゆみ「谷中スケッチブック」によると、森鴎外が馬に乗って往来していたというから、昔ながらの街道であろう。実際、芋坂を上り切って道なりに歩いていくと、幸田露伴の「五重塔」(今は消失して土台しかない)があった天王寺に出る。

 さらに進めば二又に分かれる地点があり、右(西)に行けば谷中・田端・駒込の方面、真っ直ぐ南に進めば上野に出る。寛永寺天王寺の参道と呼んでよかろう。この近辺の街道については、いずれまた触れる。なお、おそらく明治時代は今の高架の歩道橋はなくて、踏切だったはずだ。その跡もあるし、丘から踏切に降りていく芋坂の分岐もある。真之が上野方面から歩いてきたのなら、ここを下ったと思う。


 芋坂は昔このあたりで自然薯が獲れたとか、里芋畑があったとか諸説紛々であるが、わが荒川区史書案内では「坂名の由来は未詳」と見事に匙を投げている(その看板の写真は下にあります)。何にせよ芋坂とは、日暮里駅そばの御殿坂やもみじ坂などという味気ない名よりも田舎っぽくて良い。このへんは谷中生姜の産地でもあり、江戸時代の地図を見ても殆ど田畑だったのだ。

 しばらくは、こんな具合に私の地理好きが噴出する記事が続く。何しろ先ずはこれらを書きたくて、準備も整わぬ間にこのブログを始めたくらいなので、日露戦争の勇ましさとは暫し距離を置く。次回は寄り道して、次の看板にも名前が出てくる善性寺について書こうと思う。



(この稿おわり)




芋坂の入り口にある立て看板  (2014年8月3日撮影)






坂の上の雲  (2014年7月30日撮影)

































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