正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

三人が寄り添うように  (第11回)

 根岸に行くと言い残して秋山真之が出かけたのは、「子規の家にその母と妹をたずねるつもりだった」と司馬さんは書いている。ところが彼は二人に会わずに帰っている。

 それがなぜなのか、これでもずいぶん真面目に考えたのだが、結局さっぱりわからん。子規の墓とご遺族が住む家は、作品中に「3キロの道を歩いて」と出てくるように決して、ちょっと近くに来たので寄ろうという距離ではない。気が変わったのだ。

 
 子規の家の前までくると、真之の身動きが急ににぶったと作者は書く。身動きというからには、脚が止まっただけではなくて体が動かんようになったらしい。家の中で人の気配がすることに彼は気付いている。でも、これは予想できて当然のこと。母の八重か、妹の律のどちらかだ。

 真之の心理描写はないが、おそらくそれを代弁しているかのように思える事情が淡々と書いてある。「病床の子規をまもって子規の生前から三人が寄り添うようにして暮らしてきた。そのひとりが欠けた。」


 この「まもって」という言葉の選びがいい。子規の病は結核である。私が生まれるそう遠くない前にストレプトマイシンが普及するまで、結核はおそらく日本で最も恐れられた病気だったろうと思う。空気感染する。飛行機に11時間以上、患者と一緒に乗っていると感染する確率が急に高まると聞いたことがある。

 喀血しカリエスまで併発した子規と、二人は住まいを共にして暮らした。もちろん看病も介護もしたが、最期まで彼の事業や社交が続くよう、まさにまもった。その大変さ、有りがたさを誰より知る本人が「写生」のように詳しく書き残している。子規を読むためには、これと向き合わなくてはいけないから読者も楽ではない。これを読ませる筆力と明朗さが子規にはあった。


 今の読者には初めから故人の子規は「欠けて」いる。でも、真之にとってそうではない。いきなり欠けた。それを電車の中で知ったと「十七夜」の章に出てくる。この余り人付き合いが上手そうにない男は、親しかった子規と広瀬を立て続けに失なっている。私はありきたりな表現しか使えないが、家の前まで来た途端、思い出すことが多々あって胸がいっぱいになってしまったのだろう。

 付き合いのあった大勢の人が、ときには楽し気に、ときには淋し気に子規との思い出話を書き残している。いつか別の機会に触れたいが、漱石も子規の死後かなり経ってから、短いが心のこもった文章を書いている。子規は必ずしも誰にでも好かれるというタイプではなかったらしいが、好かれるときにはとにかく好かれた。


 真之は根岸正岡家の前で、ずいぶんと長いこと立っていたらしい。お律が人の気配に気付いて気味悪く思い母に伝えた。今風に言うとストーカー疑惑がかかった。お八重が路上に出ると、足早に立ち去る男の後ろ姿だけが見えた。淳さんみたようじゃったが、と娘に報告した。お律が慌てて追いかけたとき、淳さんは遠くに去って見つからなかった。

 真之の行動も細かく書かれているが、母娘もこのあとで子規の墓のあるお寺の住職から、柔道教師のような壮漢がお布施を置いていったことを知らされたとあるから、僧かお律が手記でも残しているのだろうか。どうやら僧は軍服を着ていなかったという理由で、あれは海軍士官ではないと言ったらしい。


 この日の秋山真之の服装は、粗末な和服に小倉袴、そしてなぜか鳥打帽。「一見、神田あたりの夜間塾の教師のようであった」とある。私は神田でときどき夜間塾の講師をしているのだが、もうネクタイなんかやめて鳥打帽に変えようかな。イギリス人が鳥撃ちのときにかぶった。防寒用でもあり晩秋だったから選んだのだろう。


 このあと真之は田端にある子規の墓に向かう。根岸から田端に向かう道は当時も今も複数ある。でも当時と今とでは、電車の線路数が違うし(このへんは地上に並んだ線路の数なら世界屈指かもしれん)、大通りも後からできているので道の走り方が違う。

 そこで私は悩みに悩んで一つの結論を出した。バルチック艦隊を海に沈めた男はどこをどう歩いたのか。パズルなどと一緒で、仕事や勉強と関係のないことで頭を使うのは楽しい。



(この稿おわり)




芋坂を登りきったあたりにて  (2014年8月3日撮影)





 母と二人いもうとを待つ夜寒かな  子規

































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