正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

王子街道(後半)  (第13回)

 前回と今回は「坂の上の雲」のストーリーとは関係がない。よほど歴史や地理が好きで、この辺を知っている人でないと面白くもなんともないだろう。最初にお断りしておくと、前回これが真之の歩いた道だと言ったものは、もっともその確率が高いからだと思うからだが、正直に言うと私好みの道でもあるからです。

 実際には、ひたすら音無川沿いに行くという方法がある。音無川は田端の方から流れていたからだ。ただし、くりかえせばその間はほとんど田畑である。これは子規の文章に幾らでも出てくる。筑波山が見えたのだ。子規や真之のころまで、根岸や日暮里は江戸・東京の街並みの北端だったのである。そんな農道を歩いたとは考えづらい。


 拙宅に「天保御江戸大絵図」という江戸時代の地図がある。測量をしたわけではないから、縮尺や方位は大雑把なものだが、大体の位置関係は分かるから充分だ。天保というと日露戦争から70年ぐらい前である。その一部を写真に撮った。色分けしてあるが、白いのが武家屋敷、茶色が寺社、青が川や池、くすんだ黄色が田畑である。


 おおむね上が北で、一番上に隅田川が西から東に流れているのが分かる。右下に茶色が集中しているのは上野の寛永寺があるからで、その南に不忍池が見える。この辺が今の台東区。その上(北)が今の荒川区で、ご覧のとおり殆ど田畑である。真ん中から左上にかけて中山道が走っているので白の武家屋敷が多い。

 なかでも一番大きい「加州」が目立つ。カリフォルニア州もこう書くが、ここでは加賀百万石の前田家の上屋敷で、現在は東京大学本郷キャンパスになっている。一時期、子規はこの近くに住んでいた。左上の端っこに木立などが見える丸っこい土地が飛鳥山である。主に地図の左半分が今の北区。


 音無川も見える。飛鳥山のふもとから隅田川の南側に流れており、途中で二又にわかれている。このうち地図で左側のまっすぐ南に向かう川は愛染川といい不忍池に流れ込んでいた。これも今は暗渠で北区と台東区の区界になっている「よみせ通り」や「へび道」がその上を走っている。

 もう片方の流れが根岸に至る音無川で、寛永寺の北側を流れている。ちょっと読み辛いが、この写真の真ん中の右端あたりに白い四角が斜めに置かれていて、中に「此ノヘン子ギシ」と書いてある。当て字なのか当時はそう書いたのか分からないが、根岸ではなくて子岸である。確かに上野から見たら子(ね=北)にある。


 次の写真は同じ地図シリーズの別の絵で、やや詳細である。こちらは便宜上、南を上にしてある。左上に字も五重の塔の絵も逆さまだが天王寺がある。その左下に「善光寺」と赤で囲った寺があるが、これは先日の話題取り上げた「善性寺」の誤り。上の地図ではちゃんと「ゼンシャウジ」になっている。

 その筋向かえは「植木屋」と書いてあるが、この角が実際は藤の木茶屋である。ここから上に(南に)上野の丘を登っていく道には「芋坂ト云」とあるから、この当時すでに芋坂と云ったのだ。道は天王寺を巡ってから絵で言うと真っ直ぐ下に向かう。

 ここは上野から飛鳥山につながる稜線であり、その一番高いところを走る道である。この途中に古い石碑がある。古い上に草木が茂る中に立っているので読みにくいが、「忠魂碑」とあり日清戦争戦没者を悼んでのものらしい。明治二十九年に建てられた。表の左のほうに「野津道貫 題」とある。日露戦争の第4軍司令官を務めた男だ。
 

 
 途中で四つ角がある。ここが谷中の峠で、経王寺というお寺がある。現在はこの絵で左にいくと日暮里駅の北口、右下に行くと谷中の夕焼けだんだん、まっすぐ下に向かう道は諏訪台通りという名がついていて、うちの鎮守の神様である諏方神社が道沿いにある。この神社については、「坂の上の雲」に関わりがあるので稿を改めて書く。

 この神社の向かい側に、前回書いた中村不折が初代の校長を務めた太平洋美術会がある。看板の文中にある「高村智恵子」とは「智恵子抄」の智恵子のこと。光雲と光太郎の親子は、この近所に住んでいたのだ。


 この道は現在は徒歩で進む場合、西日暮里公園を抜けて道灌山通りを歩道橋で越えると開成高校のあたりに出るのだが、江戸の昔は公園ではなく加州前田家の墓地であった。したがって今も車道はそうなっているが、いったん右に迂回して坂を下り、「佐竹右京太夫」のお屋敷の脇からもう一度、道灌山に登ることになる。

 「坂の上の雲」に田端に近くなると坂がきつくなると書いてあるが、ときどきこのあたりを歩く私にとっても、この西日暮里から田端への道は上り坂はところどころで勾配がきつい。子規は人力車で田端の坂道を登る際、落ちたら命が危ないと怯えたと新聞日本に書いている。

 今の車道でいうと田端駅を越えて少し進んだあたりで、南側に左折すると子規の墓のある大龍寺に至る。上から二番目の地図でいうと、右下のほうにずらっと並んだお寺の一つだ。下に拡大図を載せます。真ん中の下のほうに赤で囲んだ「別當大龍寺 八幡宮」が見える。ここも今も昔も神仏習合なのだ。



(この稿おわり)




 
 
 










































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