正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

大龍寺  (第14回)

 せっかく真之が歩いた道の検討をしたこともあり、子規のお墓参りに行ってきました。今回が二度目の墓参。ここで前回までに書いた「可能性の高い道」をそのまま歩いた。ただし、帰りは疲れ切って(その休日が、ものすごい高温多湿の日だったのだ)、電車で戻って来た。

 子規の墓がある大龍寺は、生前の本人が選んだと「坂の上の雲」に書いてあるのだが、旧久松藩が東京に設けた寄宿舎の管理人で、子規の文学の弟子になってしまった内藤鳴雪の自伝によると、律院が清潔で良いという理由で内藤さんが選び、碧梧桐氏と下見に行って決めたと書いている。


 誰が選んだかはともかく、そのとおりなら当時は律宗の寺院だったことになるが、今は真言宗とお寺の柱に大書してある。新旧二柱あったので写真に撮って来た。今このあたりは静かな住宅街になっている。
 

 昔の地図を見ると、今のメイン・ストリートである田端高台通りより少し南の、今ではところどころで途切れている道のほうが街道だったのではないかと思う。前回の地図どおり、この大龍寺を始め、多くのお寺が今も昔もこの道に面していたり、すぐ近くにあるからだ。「雨の坂」の最後のほうにも、真之がお寺から出た道は王子や飛鳥山に続く古くから街道と書いてある。こんな看板が立っている。





 ここに至る日暮里と田端の間の高台は、古くから道灌山と呼ばれており、大森貝塚に続いて日本で二番目の貝塚が発掘されている。昔は船着き場で、周囲は海だった。好古の作文「飛鳥山ニ遊ブ」の箇所で司馬さんが書いているのとよく似た情報が史跡の立て看板にも載っている。


 さて、お参りをした子規の墓は、その向かって右に母のお八重の墓があり、左隣に正岡家先祖代々の墓というのがある。どこで読んだか忘れたが、たしか妹のお律はこちらで眠っているはずだ。私は墓の写真を撮影したりブログに乗せたりするのが余り好きではないので、ここではそれに変えて、お墓の近くに建っている小さな塔をご紹介します(写真は本文の一番下)。

 これに本人が自分で書いた墓碑銘が刻まれている。当たり前だが命日が分からないので□(空白がわりの四角形)になっているのだが、何とももの悲しいのは、自分の享年が三十代になるであろうことを覚悟していることだ。こういう文章である。

 
  正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名は升又ノ名ハ子規
  又ノ名ハ獺齋書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人
  伊予松山ニ生レ 東京根岸ニ住ス
  父隼太 松山藩馬廻リ加番タリ 卒ス 
  母 大原氏ニ養ハル
  日本新聞社員タリ
  明治三十□年□月□日没ス
  享年三十□ 月給四十円


 「又の名」が多いが(竹ノ里人がいいな)、ともあれ最初は名前、次が生国と子規庵の場所、父と母の紹介。次の「日本新聞社員タリ」と最後の「月給四十円」が面白い。正岡子規は、辞書でも百科事典でも教科書でも文学者として紹介されており、もちろん間違いではないが、本人は墓碑にそうは書いていない。自分は新聞記者で月給取りだと、その生業しか示していない。

 月給四十円というのは、庶民の米代が月五円ぐらいと「坂の上の雲」のどこかに書いてあったから、相当な高給取りである。晩年の子規は身動きも大変で殆ど記事を書けず、書いても「ホトトギス」が中心だったのだが、社長・隣人・恩人といろいろ兼ねていた陸羯南はこの給料を払い続けた(このあたりのことは第二巻の「子規庵」などの章に出てくる)。


 これが子規唯一の収入であり、根岸正岡家の生活費の全てであった。彼は漱石のように本が売れてお金が入ったことなどない。今の職業欄に書くとすれば「会社員」しかやったことがない。短詩の改革という大事業を誰にも負けない見事さで成し遂げたという自負は極楽に持って行けないくらい抱えていたはずだが、そういうことを墓に刻んで後世に威張ろうという発想がない。

 この日の最大の不覚はお花を持って行くのを忘れたことだ。三つの墓に花が無かった。次は気を付けよう。お寺を出るころ、雨が降って来た。真之のように供養料をおさめれば雨具を借りられるだろうか。幸い大した雨ではなかったので、持っていた折り畳みの傘も差さずに駅まで歩いた。左折すれば飛鳥山だが、右に折れて山手線に乗った。お盆の時期だけはすいている。


(この稿おわり)




(2014年8月16日撮影)













































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