正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

山地忠七  (第15回)

 幕末のころ土佐の侍に山地忠七という若者がおった。殿の身の回りのお世話係を命じられ、参勤交代で江戸で働いていたころ、田舎からの手紙で母が重病であることを知った。忠七は朴訥な父と孟母のごとく厳しい母の教育を受けて育った。

 例えば子供のころ鬼ごっこをしていて誤って転倒し、竹が目に刺さって泣いていた時、それごときで泣くのかと母に一喝されて少年は黙って耐えた。幸いもうすぐ次の参勤交代の時期であった。

 帰省して看病すると急ぎ返事を出したのだが、母は再び忠七に便りを送ってよこし、公私混同すべからずと育てたはずだと怒り、たとえ参勤交代があろうとも申し出て江戸で働き続けよと吠えた。やむなく忠七は勤めに励み続けたが、これを聞いた友人の板垣退助は、堪らず殿に申し伝えた。

 
 このときの土佐藩の殿様は詩人であった。山内容堂という。「この母にしてこの子あり」と容堂公は称え、玻璃の盃を賜った。もっとも賜った相手は配下の忠七ではなく母のほうだったが。

 後年、板垣が薩長の挙兵に応じるべく土佐藩軍を拝借に来た。容堂は「天尚寒シ、自愛セヨ」と語ったと伝わる。これが容堂の優しさだと感激している人もいるようだが、この人に限り風邪ひくななどと言う訳がない。よほど悔しかったのだろうが、強情を張ったに違いない。

 三百諸侯の殿様が誰一人、幕府のために戦わず部下を差し向けただけだったのが武家政権の致命的な終焉だったと「坂の上の雲」で司馬さんが二三回、書いている。俺が行くと言えるほどの無茶な殿は、この鯨海酔行の男を措いて他にいなかったろうに。日本中が迷惑する絶好の機会は失われた。


 この板垣軍に忠七も参戦し鳥羽伏見に出陣、会津でも戦って大鳥圭介の先陣と衝突、すぐさま相手二人の胴を斬った。西南の役でも戦い、人吉の戦いで重傷を負っている。文字どおり幕末維新の粉塵の中で鍛え上げられた軍人であった。

 厳格にして清廉、将となっても銃弾が飛び交う最前線から離れない。援軍が必要なら申せと川路利良に戦場で言われ、それなら俺はもう口をきかんと言って黙り込んでしまった。

 その気合は桐野利秋に愛され、その軍事論がメッケルに評価された。征韓論が敗れたとき板垣と共に下野したが、政治家には向かんと自由論(自由民権運動のことでしょうね)と袂を分かって陸軍に戻った。


 忠七は明治になってから名を元治と改め、大阪や熊本にあった「師団」と呼ばれる前の「鎮台」の司令官になった。以上は彼の部下の参謀として働き、私淑した陸軍少将の山口正というお方が書いた「故陸軍中将山地元治君」から現代語にしつつ抜き書きしたものである。

 この山地が程よく出世したころ、日清戦争が勃発する。明治陸軍は黄海海戦の勝利で戦争が最終局面に向かい始めた時期、百戦錬磨のこの男を第一師団の師団長に選んだ。野戦軍の司令官である。彼の上司の第二軍司令官は大山巌。組成されたばかりの騎兵第一大隊もその隷下に置かれた。大隊長はフランス帰りの秋山好古


 さて、上記の本は明治三十五年に出版されたもので、まだ神格化されていない乃木少将が彼の部下として旅順で戦った話も普通に出てくる。表紙に続く頁には山地壮年の写真が掲載されており、幼少時の竹の大怪我がもとで右目が潰れているが眼帯もしていない。

 この渾身が武士として出来上がっている男は勇猛なだけでなく軍律にも厳しく、その風貌から独眼竜と呼ばれた。いよいよ清国に出兵が決まり、山地師団長は本邦からの出撃前に軍装検査を行った。そこで奇異なものを見た。世界で類を見ない軍事品かもしれなかった。長くなったので以下つづく。



(この稿おわり)




百合と芙蓉  (2014年8月10日撮影)











































.