船大工 (第17回)
文庫本の第二巻に「米西戦争」という章がある。米国駐在中の秋山真之がサンチャゴ湾の閉鎖作戦を勉強していたころのことだ。この時期に小村寿太郎がアメリカ大使として着任する。この人は「坂の上の雲」の至ることろに出てくる。日清戦争が始まるころの北京駐在の代理公使であった。小男で外国人から「ねずみ公使」と呼ばれた。
彼は飫肥藩という小藩の出身で、薩長が牛耳る明治政府において、自力でのし上がった。飫肥(今の宮崎県にあった)は維新に乗り損なったたばかりか、かつては隣の薩摩と戦争したことまである。小村はアメリカ駐箚の後、外務大臣として日英同盟を結実させ、日露戦争末期にポーツマスの全権委任になり、ここで全精力を使い切って身体を壊し間もなく死んだ。
小村大使はアメリカに赴任する際、同じ飫肥出身で自分の書生をしていた桝本卯平という青年を連れて行った。桝本は工学士で専門は造船である。学生時代に長崎の造船所で働き、日本郵船の「常陸丸」という船を造る事業に参加した。長崎には幕末に咸臨丸に乗せる水兵を教育する学校があって、それ以降、この三菱の造船所などの軍事産業が育った。
なお、日清戦争のときは広島に大本営が置かれ、このため広島や呉という地名が海軍に関連して「坂の上の雲」にもよく出てくる。広島と長崎に原爆が落とされた理由の一つには、まず間違いなく両都市に海軍の施設が多かったからだろう。真珠湾の復讐か。
せっかく造った常陸丸だが、「信濃丸」と同様、日露開戦とともに郵船から徴用された。そして緑馬事件のあった宇品から出航し陸軍の兵や物資を運搬中に、ロシア帝国のウラジオ艦隊の攻撃を受けて沈み、多くの死者を出した。第四巻の「黄塵」に、このころウラジオ艦隊が沈めた日本の船名が並んでいて常陸丸の名もある。
常陸丸を砲撃して沈めたのは「ロシア」と「グロムボイ」で、後日この二隻は怒り心頭に発した上村彦之丞の第二艦隊に追撃され、このとき初めて本格的に使われた例の下瀬火薬で大火災を起こし、ウラジオストクに逃げ戻ったものの使い物にならなくなり、ウラジオ艦隊はこれで事実上消滅した。
アメリカに連れていかれた桝本青年は、ここでも造船に携わっている。このころアメリカは、交戦間違いなしと観られていた日露双方からちゃっかり軍艦の製造を受注している。日本からは巡洋艦の「千歳」と「笠置」、ロシアからは戦艦「レトィザン」と巡洋艦「ワリャーグ」。
小村が頼み込んで桝本は造船会社で働くことになった。フィラデルフィアでの住まいは真之が下宿の手配をしてくれた。ところが彼が配置された現場はロシアの「レトヴィザン」の工場で、アメリカ人労働者から「なぜ、わざわざ敵艦を造りにきたか」「スパイか」とからかわれつつ、連日、死傷者が出る危険極まりない職場で汗を流した。
桝本さんの責任ではないが、この「レトヴィザン」も沈んだ。旅順港停泊中に、まず開戦早々「マリア祭」の夜に魚雷を食らって壊れ、修理はしたが後になって、二〇三高地から28サンチ榴弾砲が雨あられと飛んできて着底、日本に没収された。
ついでに言うと、もう一隻の「ワリャーグ」も日露海軍緒戦の仁川沖において、日清戦争で東郷艦長が英国商船を沈めた「浪速」や「浅間」ほかの攻撃を受けてやむなく自沈した。
他方の「千歳」と「笠置」であるが、高速巡洋艦の集団である第三戦隊に所属した。第八巻「沖ノ島」に出てくる。バルチック艦隊が東郷の第一艦隊に遭遇するまでの監視役を担ったのだが、司令官は例の「龍田」の艦長も務めた歴戦の勇士、出羽重遠で(信じがたいが彼は会津藩出身である)、「しだいに図々しくなり」近寄り過ぎて敵弾が集中して飛んできた。
つまり日本海海戦でバルチック艦隊の砲撃を浴びたのは三笠が最初ではなく、千歳や笠置だったのだ。でも巡洋艦だからロシアの大戦艦軍と砲撃戦を交わす力はない。ようやく第三戦隊は大人しく引き下がり、かといって逃げもせず信濃丸、和泉の伝統を引き継いで、しつっこくバルチック艦隊にへばりついた。
日本海海戦は戦艦同士の戦いだけではなく、巡洋艦隊隊同士も交戦している。なんせ、全滅させるという大目標があるから、足の速い敵巡洋艦にウラジオに逃げられては困るのだ。出羽さんが乗っていた旗艦「笠置」は、この戦闘で被弾して浸水が始まり、やむなく戦線を離脱し帰投している。
だがご本人はこんなことで闘争心を喪うような人物ではなく、将旗とともに僚艦「千歳」に乗り移って戦場に戻った。戦闘は相手が霧に紛れて逃げたりしたため長引いたが、結果は申すまでもなく日本の巡洋艦は一隻も沈まなかった。
(この稿おわり)
近所のお寺にある私お気に入りの仏像。鎌倉時代。
(2014年8月10日撮影)
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