正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

愚駄仏庵  (第20回)

 前回の続き。子規は看病に来てくれた虚子に、自分の事業の後継者になれと口説いたらしい。これと同様の場面は後にもでてくるのだが、どうやらここで虚子は快諾せず、子規は子規であきらめなかったということだろうか。

 ようやく子規も小康状態になって退院した。私が子供のころ初めて小康という言葉を知ったのは、「アンクル・トムの小屋」である。あの小説に幼い少女が出てくる。トムに優しかったが、彼女は病弱であった。病名を覚えていないが、小康状態がよくある病だった。


 さて、子規はすぐ東京に戻ることなく、転地療法らしき行動に出た。サナトリウムに入れるような金もないし柄でもないが、幸い故郷は静かで空気のよい田舎である。伊予松山に戻った。

 お八重とお律が東京に出たから、実家は売り払ってしまってもうない。しばらく親戚の厄介になっていたらしいのだが、幸い友が来ている。子規や真之が卒業した松山中学(当時)の教師として、夏目漱石が赴任していたのだ。しかも漱石の在籍期間は、この日清戦争が終わった1895年の一学年だけであった。すごい偶然である。


 この1年間に地方の学校で小僧らに散々いじめられた体験が、「坊ちゃん」に詰まっている。日本の文庫本史上で一番売れた本は漱石の「こころ」だそうだが、私は断然「坊ちゃん」のファンだな。漱石の小説にしては、めずらしく出来事が多い。

 夏目先生は上野さんという元武家が貸している下宿に暮らしていた。幸か不幸かその下宿の一階が空いていて、それを目ざとく子規が見つけたらしい。大家さんは肺病持ちと聞いて恐れをなし、漱石に伝染するからやめておけとしつこく言うし、漱石自身、「僕も多少気味が悪かった」と正直に書き残しているが、結局は「構わずおく」ことになった。


 これが別の意味で裏目に出た。旧友は教職の鬱屈を晴らす相手にはなったかもしれないが、それより子規が戻って来たと聞きいれた松山の俳句好きたちが、連日「お頼みィ」とやってきて騒ぐ。うるさくて好きな読書もできないと漱石は書いている。臨時のサロンになってしまったのだ。

 子規は最初、哲学者にならんとし、でも同級に優れた哲学科の学生がいたので諦めた。つぎに小説家を志望したが、作品を幸田露伴に見せたところ反応が良くなくて、また諦めた。たった一回だし、露伴は子規と同い年の駆け出しである。諦めが早い。でも子規という人は、病院で口説かれた虚子が評しているように「執着」の塊のような人物であった。一番になりたい。


 それに要するに哲学も小説も、いっときの発熱みたいなもので、そもそも子規はどこか自分には遇っていないことに意識してかどうかは分からないが、感じていたに違いないと思う。文学にせよ雑談にせよ、彼は大勢と騒ぐのが好きなのだ。

 われわれは新聞などで俳句や短歌を黙読する程度で済ませているが、これらは本来うたうものである。しかも人前で披露し、批判を受けたり勝ち負けまで決められたりする。もちろん源氏の君のように紙に書いて、こっそり届けたりする不届き者もいるが、ああだこうだとやり合うのが子規の好むことろだったに違いないという感じがする。


 漱石も引きづり込まれて俳句作りを始めたらしい。漱石には別の号があって「愚陀仏」という。ぐだ話(静岡の方言なのか、広辞苑にない)とお陀仏の掛け言葉なのだろうか。阿弥陀様の罰が当たらないと良いが。子規は先任の店子に敬意を表して、自分の下宿部屋に「愚陀仏庵」と命名した。大家さんはこの勝手を知らない。

 先日(2014年8月の下旬)の新聞に、夏目漱石正岡子規に宛てた手紙が新たに見つかったとの記事が載っていた。主な用事は先日の子規庵の句会で使った人力車の料金は払っておいたから心配するなという、近代日本文学史上の両巨人のやり取りとしては地味である。


 もっとも漱石は、そのあとで九句もの俳句を書きならべている。記事によれば、そのうち二句は未発表というから、漱石久々の新曲発表である。漱石の署名は例の「愚陀仏」。宛先が可愛くて「升様」になっている。

 なお、文庫本第二巻の愚陀仏庵のあたりの場面に、柳原極堂という俳句仲間が出てくる。この人は子規と一緒になって、いま漱石の勤め先になっている松山中学を退学し、共に東京に出て来た相棒である。彼が後に「ホトトギス」を松山で始め、虚子に譲って東京で発行されるようになる。


 このシーンに続いて、かつて触れたが「筑紫」で帰国した真之も松山に来て、日清戦争の話などしている。子規も旧友らに会って元気が出たか、関西経由で東京に戻った。このとき奈良で着想したのが、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の一句である。

 俳句について、先ほど私は発声すべき文藝であろうと述べた。この柿の句は最初のほうに「か行」の固い音が並び、後半は「な行」と「ら行」の滑らかで柔らかい音に移ろっていく。子規が意図的にそうしたとは思えないかれども、書き言葉だけでは、こうはならないような気がする。



(この稿おわり)






 愚陀仏は主人の名なり冬籠    愚陀仏

















































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