正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

無線機  (第21回)

 今回は山本夏彦著「最後の波の音」の引用から始める。今日は引用ばっかりなのだが、昔の話をしているので仕方がない。この件は司馬遼太郎「明治という国家」にも出て来るので、ご存じの方も多かろうかと思う。引用、始め。

 「これ以上の恋の手紙は稀だろう。私が言いたいのは広瀬は旧幕のころの遣米使節、木村摂津守、村垣淡路守の末裔だということである。木村も村垣も見る人が見れば一流の文化国家の一員である。ことに木村のごときは貴公子だとか彼の地の新聞に書かれた。」


 引用、終わり。山本さんのこの文章全体はいずれまた別の機会に話題にする予定ですが、ここでは簡単に補足すると「恋の手紙」の差出人はロシア人のアリアズナ嬢、広瀬とはあの広瀬である。遣米使節の木村摂津守は、子供の頃から名前だけは知っている。咸臨丸の「軍艦奉行」だったひとだ。艦長のことだろうか。

 咸臨丸が渡航したのは私が生まれたちょうど100年前、西暦では1860年安政七年として始まり、途中で改元されて万延元年になった。改元の理由はたぶん、その直前に井伊大老の首がフットボールのように雪道を転がってしまったからだろう。サンフランシスコに住んでいたころ、咸臨丸がここに到着という石碑を見た覚えがある。


 一行はそのあとニューヨークに行き、マンハッタンを行進した。「見る人が見れば」とは、その行列の様子を「草の葉」の詩人、ウォルト・ホイットマンが見て、6月27日付の「ニューヨーク・タイムズ」に寄稿したからだ。その英文は「Walt Whitman The Errand-Bearers (1860)」で検索するとネットでも読める。

 この「使節」という文章は、後に「ブロードウェイの行列」(A Broadway Pageant)に改題・手直しされて、「草の葉」に収録されたから、こちらは翻訳も読める。ホイットマンは確かに、「貴公子(プリンス)」とか「礼儀正しい」(courteous)と賞賛の言葉を用いている。


 しかし、残念ながら多くのブログで間違って書かれているが日本人を褒めただけの詩ではない。ちゃんと最後まで読んでください。ともあれ、咸臨丸は幸運と言っていいかもしれない。アメリカは翌1861年南北戦争が始まってしまうのだから、サムライどころではなくなっていたかもしれない。

 このプリンス木村の御子息に、駿吉という秀才が出て今の東京大学で物理を学び、博士号も取得してイギリスに留学している。そして、同じころロンドンにいた南方熊楠との間で親交があった。以下、水木しげるの「猫楠」に出てくる話。熊楠は猫好きだった。


 イギリスでの南方さんは大変な貧乏で、本人いわく馬小屋博士の異名をとるほどに汚い家で汚く暮らしていたらしい。その熊楠に、駿吉は金を借りに行っていたというほどの文無しで、さすがの馬小屋博士も二三日ほど食っていないという駿吉の哀れさに蓄えを叩いて飲み食いしている。後に駿吉は熊楠に大金を送り返した。

 この駿吉は「坂の上の雲」文庫本第六巻の「錦海湾」に、木村駿吉博士という堂々とした名前で登場する。このころ、ロジェストウェンスキーの大艦隊は、思わず同情したくなるほど気の毒な諸情勢により、マダガスカルで釘付けになっていた。東郷さんたちは、おかげで軍艦の手入れができて、万全の態勢で強敵を迎える準備が整った。


 すでに作戦を練り上げている秋山真之は、バルチック艦隊がどこから来るかという大問題を除けば、少し余裕ができたのだろうか。佐世保を出航した戦艦三笠の甲板上を見物して歩いている場面がある。たとえば、錨座(アンカー・ベッド)。船の両脇にある。数年前に三笠に乗ったとき、私はこれが何なのか理解できなかった。錨を仕舞っておく装置だったのだ。

 さらに一つ。真之お気に入りの無線機で、彼は「よほど気になっていたらしく、しばしば後部シェルターデッキの下へ行って、この無線機の操作をみた。」らしい。そのデッキも見た記憶がある。そして「この無線機」とは、例の木村駿吉博士が明治三十六年(1903年)という開戦ぎりぎりの時機に作り上げた「三六式無線機」のことだ。


 日本海海戦を舞台にした多くの映画やドラマに出てくる信濃丸からの通報に使われたのが、真之いわく「通信戦に関する限り、日本海軍のひとり舞台だった」という三六式無線機だった。博士は急がずゆっくりと確実に打てと技術指導までしていたと書いてある。前にも触れたが真之は戦後すぐ、木村駿吉にお礼の電報を打った。

 この通信機の通信可能範囲は半径八十里(300キロ余り)とある。信濃丸が打ち上げた狼煙も、三笠が発信した艦隊運動の操艦の指令も、この小さな機械が飛ばした電波であった。ちなみに、後に太平洋戦争で徴兵された水木しげるは、乗せられた船がボロボロなのに驚いた。水木さんが水兵さんに訊くと、その船は古いも当然、信濃丸という名であった。



(この稿おわり)




近所の芙蓉。毎年、見物に行きます。
(2014年8月9日撮影)






 枝ぶりの日ごとに変る芙蓉かな   芭蕉


































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