正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

鉄幹と晶子  (第22回)

 今回はちょっと趣向を変えて、与謝野さんちの話題。もうずいぶん前のことで誰の文章だったか忘れてしまったのだが、その人がある日、与謝野家に伺ったところ、鉄幹先生が自宅の庭で、背中を丸めてしゃがみ込んでいる。

 客が近寄ってみたところ、鉄幹は小さなシャベルか何かで、無心にアリの巣を掘り返していたらしい。当時、妻で弟子の晶子のほうが売れて有名になっていたため、その鬱憤を晴らしていたのではないかというのが目撃者の推察であった。


 与謝野鉄幹歌人としてよりも、むしろ編集者や評論家としての才能が高かったのかもしれない。晶子さんのほかにも石川啄木北原白秋を世に出した。白秋とくれば何といっても、私の田舎・静岡では「ちゃっきり節」の人である。

 うちに「五足の靴」という岩波文庫があり、著者は「五人づれ」という妙なペンネームだが、これは鉄幹が白秋や吉井勇などの若い詩人たち4人を連れて九州に旅行したときの紀行文を交代で書いたものだ。

 先年、天草に旅行にいったときに買って読んだ。題名で分かるように、海を渡るときのほかは基本的に徒歩で延々と旅している。なお、吉井勇とは、先日、日本鉄道の初代社長になった件で触れた幸輔どんこと吉井友実さんのお孫である。


 鉄幹が子規庵に出入りしていたことがあるという記事をどこかで読んだ気がするのだが、これも残念ながら出典を忘れてしまった。ひどい記憶力。子規自身は「墨汁一滴」の中で、鉄幹と自分の作風は正反対だという主旨の辛目の論評をしている。ただし、人格の非難のような個人攻撃はしていない。

 確かに現在も鉄幹の名より、晶子夫人や啄木や白秋のほうが有名かもしれない。夫婦は一時期、渋谷に住んでいたこともあると最近知った。与謝野晶子の代表作といえは、詩集ならば「みだれ髪」だろう。私の場合、最初に読んだ彼女の作品は「源氏物語」である。


 何といっても詩では「晶子詩篇全集」に収録されている「君死にたまふことなかれ (旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)」が名高い。副題が示すとおり、日露戦争の真っただ中の1904年に「明星」誌上で発表された。

 当時から「すめらみこと」の箇所が批判の対象になったそうで、天皇批判と言う人はたぶん今でもいるだろうが、これは少なくとも明治天皇個人を責めているとは到底、私には読めない。


 かと言って、弟の安全祈願をしているだけの詩でもない。これは反戦歌であり、国粋主義者批判であり、もちろん姉が末っ子の弟を思いやる詩でもある。

 ところで、この詩の最後のほうにある「暖簾のかげに伏して泣く あえかに若き新妻を 君忘るるや、思へるや。」という部分と、ちょっと似た感じの表現が「坂の上の雲」の「黒溝台」の章に出てくる。長くなったので続きは次回にて。





(この稿おわり)




(2014年9月1日、渋谷の道玄坂上にて撮影)





 君死にたまふことなかれ
 (旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)

 ああ、弟よ、君を泣く、
 君死にたまふことなかれ。
 末に生まれし君なれば
 親のなさけは勝りしも、
 親は刃をにぎらせて
 人を殺せと教へしや、
 人を殺して死ねよとて
 廿四までを育てしや。

 堺の街のあきびとの
 老舗を誇るあるじにて、
 親の名を継ぐ君なれば、
 君死にたまふことなかれ。
 旅順の城はほろぶとも、
 ほろびずとても、何事ぞ、
 君は知らじな、あきびとの
 家の習ひに無きことを。

 君死にたまふことなかれ。
 すめらみことは、戦ひに
 おほみづからは出でませね、
 互に人の血を流し、
 獣の道に死ねよとは、
 死ぬるを人の誉れとは、
 おほみこころの深ければ
 もとより如何で思されん。

 ああ、弟よ、戦ひに
 君死にたまふことなかれ。
 過ぎにし秋を父君に
 おくれたまへる母君は、
 歎きのなかに、いたましく、
 我子を召され、家を守り、
 安しと聞ける大御代も
 母の白髪は増さりゆく。

 暖簾のかげに伏して泣く
 あえかに若き新妻を
 君忘るるや、思へるや。
 十月も添はで別れたる
 少女ごころを思ひみよ。
 この世ひとりの君ならで
 ああまた誰を頼むべき。
 君死にたまふことなかれ。




          与謝野晶子
















































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