正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

がらっぱち  (第24回)

 幼少時の私は病弱で何故かすぐに熱を出し、幼稚園や小学校を数えきれないほど休んだ。あともう少しで進級できないほど欠席日数が多かった年もある。そういうときは仕方がないので寝転がって家にある本を読む。漫画は滅多に買ってもらえないため、いきおい祖父母や両親が買い揃えた本を書棚から引き出す。

 こうして最初に読んだ司馬遼太郎作品は「関ヶ原」である。読んだ方はご存じだと思うが、最初のほうに少し子供には早い話が出てくる。それはともかく、今日の話題は野村胡堂の「銭形平次捕物控」から始める。確か学校を休んで全巻を読んだ。銭形の親分は子孫に銭形警部を持つが、親分本人は岡っ引きだから私立探偵みたいなものだ。


 彼の子分が八五郎で、最初のうち銭形さんは彼を「がらっぱち」と呼んでいたのだが、八五郎から「あんまりだ、せめて本名を」というクレームが出て改めた。がらっぱちとは最近あまり聞かなくなった言葉だが、「言動・動作の粗野な人」(広辞苑第六版)とあるから、八五郎が嫌がったのも無理はない。粗野なんだけど。

 この言葉は「坂の上の雲」文庫本第七巻の「艦影」という章に出てくる。一文丸ごと引用すると、「森山はがらっぱちといっていいほど、磊落な性格で、相手構わず他人の欠点をずけずけ指摘したりする癖があったが、そのかわりに自分の欠点や失敗についてもかくしだてすることがなかった。」


 要するに八五郎同様、江戸っ子タイプなのだろうが、この森山とは直前の段落で紹介があって、秋山真之海軍兵学校で同期だった森山慶三郎さん。「艦影」のころ、すなわち日本海海戦直前において中佐であり、第二戦隊第四艦隊に所属し、例の英国商船を撃沈した戦艦浪速の参謀を務めていた。

 司馬遼太郎の長編には、特にこの「坂の上の雲」には、脇役として何回か断続的に登場し、印象深い言動を示す人たちが何人か登場する。おそらく、(1)手記や手紙など記録するのが好きで、それが残っていて読める、(2)主人公(ここでは秋山兄弟や子規)と関係がある、(3)司馬さん好みという三条件を満たさないと合格できない。


 森山がその一人である。先述のごとく言いたい放題で豪放磊落とあっては、取材や会議の議事録なんかで沢山そのガラッパチ発言が収録されているに違いない。私が覚えている彼の印象的なエピソードは三つある。一つは第二巻「渡米」などに何回か出てくる真之の海軍兵学校時代の評判、「試験の神様」についてである。

 第一巻において、真之は最初の学年だけ試験結果が十五位で、それ以降、卒業するまで首席だったというからすごい。上記「渡米」ではその極意が語られているが長いので引用は省く。良く言えば物事の本質を見逃さず、簡単にいうと要領がいい。卒業するとき同郷の後輩の竹内重利に5年間の過去問を置き土産とした。

 そのとき同席していた同期の森山に、「人間の頭に上下などはない。要点をつかむという能力と、不要不急のものは切り捨てるという大胆さだけが問題だ」「従って物事ができる、できぬというのは頭ではなく、性格だ」と言った。と詳しく書いてあるということは、森山さんが記録に残したからだろう。この頭脳と性格の問題は、「坂の上の雲」の重要なテーマの一つなので後日、稿を改めて書きます。


 二つ目の逸話は、がらっぱちの本領発揮ともいうべき神をも畏れぬ暴言かもしれないものが、第三巻「マカロフ」の最後のページに出てくる。東郷平八郎連合艦隊司令長官に任命されたときの思い出話である。森山少佐は佐世保でこの報に接し、東郷さんについて「存在さえおぼろげ」「能力がわからない」「こんな薄ぼけた長官が来ちゃ海軍もだめだ」「おそらく薩摩人だから選抜された」のだろうが「困ったものだ」というような話題が艦隊内で飛び交ったという。

 妙に細かいので、これは本人が全部言ったのかもしれないが、「後年になって座談会」で語ったというから、相手が相手だけに粗野では済まない放言ではないだろうか。しかも続きがある。東郷新長官は汽車で佐世保に赴任した。お迎えはわずか三人。森山少佐は下っ端で、梨羽時起少将と戦艦三笠の艦長、伊知地彦次郎大佐に同行した。この二人もいずれ話題にします。

 森山さんの記憶によれば、兵員の整列も軍楽隊の音楽もなく、初めて見るトップは「小柄な爺さん」で総大将の威容がなく、停車場の前のデコボコの埋め立て地を「ヨボヨボ下を向いて歩くのだから、いよいよこの人はだめだ」と思ったそうだ。人を見る目が無かったのである。

 とはいえ正直は良いことだ。森山少佐(当時)によれば、やがて連合艦隊内では何時の間にか東郷の「人格的威力が水兵のはしばしにまで浸みとおって」、何やら不思議な人だと思うようになったという。放談の締めくくりは上手くまとめたか。


 最後の三つ目のエピソードが冒頭に戻って「艦影」に出てくる。がらっぱちが中将に昇進してから語り残した話だ。森山大佐を含め参謀連の多数は、バルチック艦隊対馬沖に来ると決めつけて対馬に貼り付いていてはダメだという意見だったのだが、「松井健吉だけはそうではない」。「わからずや」の松井は対馬ルートを主張して会議でも譲らず、とうとう勝った方が飯をおごるという事態に発展した。

 この場合、状況の深刻さからすれば負けた方が切腹というのなら分からないでもないが飯のおごりか。でも命を賭けたら本当の喧嘩になってしまうだろう。合戦直前に参謀が感情的になって仲間割れしては困ります。このころ松井健吉中佐は第一艦隊第一戦隊の参謀で「日進」に乗っていた。森山と松井の話には続きがある。そこに至る前に少し寄り道をします。



(この稿おわり)





バルト海の古地図。バルチック艦隊が出航したリバウ港は、この地図に地名としては出ていない。海獣のような絵の右下にある「Riga」が、現在のバルト三国の一つ、ラトビア共和国の首都。リバウはこのリガの西側にあって今はリエパヤと地名が変わっている。同じくラトビアに所属し港町として栄えているらしい。
(2014年9月10日撮影)
















































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