正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

つらい軍艦  (第25回)

 文庫本第八巻の「運命の海」という章は、日本海海戦において両軍が相手の存在地点を確認し、日本の艦隊が敵前回頭して、露国艦隊が発砲を開始する場面から始まる。要は開戦だ。この途中に「春日、日進というのは、つらい軍艦であった。」という一文がある。

 軍艦を擬人化している。この気分は私も少し共有するようになった。一つ一つの軍艦に、誕生の話があり、活躍の場面や秘話や悲劇があり、いつかは寿命を迎える。一つ一つに、親が子に命名するように、きっと考えに考えて良い名を付けたにちがいない。


 それにしても、春日と日進は私の浅い知識によれば、この海戦において日本側の最新鋭艦であったはずである。それがなぜ「つらい軍艦」なのだろうか。まずは構造上の問題と、それに先立つ調達時の経緯があった。

 両船の設計・製造に日本は参加していなかった。すなわち例えば三笠のように始めから日本国が注文したのではなく、最初はアルゼンチンがイタリアに発注したとある。このため「日本海の波浪の粗さ」が構造設計の計算に入っていなかった。

 私はこれまで殆ど太平洋側に暮らしており、日本海はフェリーで隠岐の島に渡ったことがあるくらいで詳しくない。しかも、その日は凪(なぎ)だった。それに世界地図や地球儀を見ると、弓状の日本列島が抱きかかえているように感じられて、穏やかな内海みたいなイメージを持っていたのだが荒れるらしい。本日も波高しだったのだ。


 古代、遣唐使は何百人もの人たちを複数の船に乗せて日本海を渡った。しかし海難事故が多く、いつかテレビ番組で、生きて往復した人は三人に一人だったという話を聞いて、たまげたことがある。どれだけ有意の人材が海に呑まれたことか。そして、何という凄まじい知識欲か。当時は朝鮮半島の政情治安が不安定で、直接、中国大陸との間の遠路を取らなければならなかったのも一因と聞いた。
 
 或る時は四隻で出航したものの、だいたい計画どおりにたどり着いたのは最澄が乗った一隻のみで、空海の船ははるか南方に流されてしまい、大変な手間と時間をかけ陸路で長安に移動しなければならなくなった。残りの二隻は今日に至るまで行方不明である。


 こんな海とは波浪の想定が異なる設計で造船された春日と日進は、「喫水に近い舷側の方は波をかぶって照準がしにくかった」とある。照準だけではないトラブルもあったのだが、それは次回以降に譲る。

 なぜこういう船が連合艦隊に入ったかというと、事情は知らないが結果的にアルゼンチンは購入せず、先ず当時の友好国であったイギリスが目ざとく見つけて日本に買ったらどうかと持ち掛け、ロシアと価格競争になり契約金で勝ったらしい。もっとも、この当時のロシア帝国は世界中の嫌われ者みたいな印象があるので、もしかしたらアルゼンチンにもそういう外交心理のようなものが働いたのかもしれない。

 つらいことになった理由のもう一つは、陣形上の配置に関してである。いずれまた触れるが当初、六隻あった第一艦隊の戦艦のうち、旅順沖で二隻が触雷して沈没してしまったため、そのピンチ・ヒッターとして、まだしも大きくて新しい装甲巡洋艦の春日と日進が三笠の率いる第一戦隊に急きょ編入された。


 他と比べて多少大きな軍艦と言っても、戦艦と巡洋艦ではずいぶんとサイズが違うらしい。でも戦術上、戦艦と同じ運動をし、被弾することになってしまった。特に日進は第一戦隊の後尾(春日はその前)だから、先頭の三笠に次いで目立つし、しかも東郷長官が何度も回頭したため、ときには日進が先頭になって集中砲火を浴びることになる。

 それぞれの船については次に話題にするとして、最後にご参考まで、在アルゼンチンの日本大使館の公式サイトに、この二隻の船名が見えるので一部を引用して終わります。最終行に意外な人の名も出てくる。


 日本とアルゼンチンの最初の接触は古く、1597年日本人が奴隷ではないと申し立てたという記録が古都コルドバ市に残っている。外交関係は、1898年にワシントンで調印された修好通商航海条約により樹立された。
 
 その後、日本人のアルゼンチンへの移住もあり両国関係は強まったが、第二次大戦に伴うアルゼンチンの対日断交(1944年1月)、対日宣戦布告(1945年3月)により両国関係は一時断絶した。1952年の平和条約締結によって外交関係が再開された後、移住協定(1963年発効)、友好通商航海条約(1967年発効)、文化協定(1981年発効)、技術協力協定(1981年発効)が締結された。

 日本とアルゼンチンの友好関係を示すエピソードとして、日露戦争の時、アルゼンチンはイタリアに発注していた2隻の軍艦(「日進」と「春日」)を日本に有償で譲渡し、それぞれ「日進」、「春日」と命名されて日本海海戦で活躍したことや、第二次大戦後にエバ・ペロン大統領夫人(通称エビータ)がリオ・イグアス号に満載した救援物資を日本に送付したことで知られている。



(この稿おわり)




隠岐に向かうフェリーから見た日本海
(2013年7月8日撮影)





























.