正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

春日  (第27回)

 今日は少しややこしい話題から始めます。文庫本でいうと第三巻と第八巻の巻末に、それぞれ連合艦隊の幹部名や軍艦名のリストが載っている。前者は1904年2月の日露開戦時、後者は1905年5月の日本海海戦時である。1年3か月しか経っていないのに何故か。

 編成上の大きな違いは、日露開戦当初、連合艦隊に含まれていなかった「老朽艦」ぞろいの第三戦隊が、戦争中に連合艦隊編入されたためで、これはこれで別表にする意味はあるだろう。年寄り扱いされた「和泉」や「筑紫」の活躍を私は見て来た。


 それはそれとして、司令官や参謀も、軍艦もいくつか入れ替わっている。戦艦の事情は後に触れるとして、人事異動については狭い意味での海戦の結果ではなく、予想外の損失という意味では、日露戦争を通じて海軍にとり最大の惨事の結末であった可能性があると私は思っている。

 第三巻の「旅順口」。ロシアの旅順艦隊が港内から出たり入ったりして小うるさい。日本側は機雷を設置して旗艦ごとマカロフ提督を海に沈めた。だが返り討ちに遭った。自慢の戦艦「初瀬」が触雷し、1分10秒で沈み戦死者多数。救助に当たった戦艦「八島」も機雷に触れて座礁し、乗組員は助かったが「八島」も沈んだ。


 このころ他にも海難事故が相次ぎ、日本軍は敵と砲火を交えずして6日間で8艘の船を自らの手で海中に沈めてしまった。声を放って泣きながら報告する将校たちに、東郷が黙って菓子をすすめたという墨絵のような光景が描かれてはいるが、現実では、どのような騒ぎになったのだろうか。

 「坂の上の雲」では参謀長の島村が自ら責任をとって、巡洋戦艦隊の指揮官になると言い出し、後任は同期の加藤友三郎を薦めた。東郷はこれを認めたということになっているのだが、船の数は減ったのであって増えたのではなく、将校が戦死したわけでもない。島村のポストは新設されたものではない。それに戦争中に幹部を交代させると士気が落ちるからこそ、乃木と伊地知は転勤しなかったのではなかったか。


 第三巻と第八巻の図を比べると、日本の人事労務的な用語でいうと「玉突き人事」と呼ばれる結果だけは読むことができる。加藤が入って島村が抜けて、島村が第二戦隊の司令官となり、その前任者の三須宗太郎が第二戦隊から第一戦隊の司令官に異動した。島村は大佐から少将に昇進しており、三須も第二から第一に変わったのだから出世とみてよいのだろう。

 押し出されたのが、梨羽時起で地上勤務になった。旅順口の制圧作戦は、東郷と梨羽(ナンバー2だったからこそ、佐世保に赴任した東郷を出迎えに行ったのだ)の二人が、毎夜交互で戦艦らを率いて巡航していた。前記の「初瀬」と「八島」を喪ったときの引率者が梨羽だった。たぶん彼個人の過失ではあるまい。この巡回計画を決定したのは東郷のほうであるはずだ。だが梨羽は当日の現場責任者であり、責任者は責任をとるために存在する。
 
 とはいえ以上は、私の勝手な想像に過ぎない。梨羽さんの更迭は、例えば病気によるものかもしれない。仮にそうだとしても、梨羽の「病欠」と島村の自己申告の異動が同時とは出来過ぎくらいのタイミングに思える。それに、この幾つかの衝突事故に関与した艦長たちの何人かも、同じころ陸上勤務になっている。


 加えて死者が多かったのは初瀬に加え、かつて真之たちがイギリスから引っ張って来た巡洋艦の吉野だった。闇夜の海上で、新入りの春日と衝突したのだ。これが正面衝突ならまだしも、どうやら吉野の横っ腹に、春日の「衝角」が突き刺さったらしい。衝角は軍艦の水面下にある槍の穂みたいな体当たり用の武器だ。吉野は乗組員が逃げる間もなく沈没した。

 日本海海戦に向かう「春日」らの将兵は、文字どおり志半ばで味方との事故のため死んでいった「吉野」の仲間を思い、どんな心情だったのだろうか。軟弱者の私が乗っていても、勝つか死ぬかの選択しかなかろう。第八巻の「抜錨」の章。そんなとき、「和泉」からの敵艦見ゆの通信が入る。


 僚艦「日進」の秀島成忠副長は、遭遇までに少し時間があると判断し、「日本海軍が建設されて以来かつてなかった号令」を発した。「酒のほか、酒保ゆるす」。酒はダメだが食糧倉庫は食い放題になった。しかも「銭は要らん」と剛腹である。後に秀島さんが確認してみたら、一人当たり菓子一袋くらいしかなかったというのは愛嬌というか、もの哀しいというか。

 「三笠」は連合艦隊の旗艦であり、つまり東郷さんが乗る船であるが、その「三笠」が属する第一戦隊の司令官は、あくまで上記の三須宗太郎であり、彼が乗船する「日進」はこの戦隊のしんがりも務める旗艦である。彼の宗太郎という名は、出身地近江の大先輩、井伊直弼大老の戒名の第一文字を拝借したものだ。三須は三須で「日進」の甲板にてシャンペンを抜き、軍歌を歌って必勝を期した。


 対馬沖において、「日進」と「春日」は残った四隻の戦艦のすぐ後ろだから目立った。さっさと回頭していく戦艦の後ろで、砲弾を浴び続けた。「春日」の大砲を守る砲門扉まで故障した。自らの身体にロープを張って戦闘中の「春日」の船べりに乗り出して、これを修理した直後に波に持って行かれた池田作五郎二等水兵は、万歳の叫び声とともに浪間に消えた。

 それでも「春日」は沈まない。この船は連合艦隊で一番遠くに砲弾を飛ばす能力を持っている。翌日は「三笠」らとネボガトフの第三艦隊を追いかけ、その旗艦「ニコライ一世」に最初の砲撃を行ったのは「春日」である。ネボガトフの降伏後も、「春日」は終戦後の海を走り回り、敵の捕虜の収容などで最後の最後まで働いた。

 艦名は春日大社がある春日から採られたものか。でも私の田舎の静岡にも春日はあるぞ。東京にも春日はある。東京ドームと東京大学の真ん中あたりにあるが、これは春日局の墓地があるためらしい。そのお墓参りをした覚えがある。私がもう一つ書いているブログで親類一族が住んでいるのも春日村。全体に長閑である。



(この稿おわり)





羽二重の団子。手土産に買ったものです。
(2014年8月31日撮影)







































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