正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

宮古島  (第29回)

 沖縄が好きで十回以上は旅行に行っている。必ず夏。主な目的は珊瑚の海で泳ぐことや釣り、そして料理とオリオン・ビールに泡盛である。本島はいつも飛行機を乗り換えるだけで、宿泊したことがあるのは石垣島久米島宮古島。その周囲の小さな島々に遊びに行くことも多い。行くと元気になり、日に焼けて戻る。二三年に一度の割合いで出かけている。

 宮古島には三回、行った。そのうち初回は単なる偶然のトランジットで、那覇空港に着いた途端に台風が来襲し、目的地の石垣島に行く乗り継ぎ便などが欠航になってしまったのだ。この日は結局、少しでも先に行く方策として、台風が去ってから宮古島に飛んで一泊し、次の日に石垣島に移った。

 
 小説「坂の上の雲」の文庫本第七巻「宮古島」の章は、上記と同じ順路で、1905年5月に沖縄列島の軍事情報駅伝ともいうべき海上リレーで海を渡った男たちの冒険譚である。真ん中の宮古島がタイトル名に採用されているのは、ここまでたどり着いた奥浜牛の苦労と、ここから発信した垣花善たち宮古島民の「凄愴としかいいようのない」伝令航海に由来する。

 この章で司馬遼太郎が書いているように、海戦史上で過去最大の、そしておそらく今後も最大であり続けそうな軍艦同士の決戦を前に、この軍隊とはおよそ関わりのない人たちの物語を置いたのは、彼らがその後、何十年も沈黙してしまったという、曰く言い難い理由もある。もちろん、バルチック艦隊がどこを通過したのかについての貴重な証言を、沈黙の前に残した。


 ロジェストウェンスキー長官がどの航路を採るだろうかという予想図は、これまで何枚かの絵地図でも見たし、今ではネットにもたくさん出ている。大別すれば二つの選択肢があり、まっすぐ北へ東シナ海から日本海へ抜けるコースと、もう一つは太平洋側を回り、この場合は更に北海道の北にある宗谷岬ルートと、南にある津軽海峡初夏景色のいずれかという問題もある。

 戦争に出たことは勿論、この目で見たことがない私でも、戦争が地勢と気象に大きく左右されることぐらいは分かる。日本列島は北東から南西に長く延びており、このたびの海戦においてはこの海上中央分離帯のような島国の右と左のどちら側を通行なさるのか、日本中が騒ぎ、海軍中が悩み、森山さんが間違い、秋山真之の寿命を縮めたようだ。


 一人、東郷平八郎のみは「敵がここを通るというから通る」という論理も何もない説明により、日本海コースであると断言した(後に敗将のロジェストウェンスキー中将には、もうすこし喋っている)。いつ敵の言うことを聴いたのか定かではないが、おそらくその声は命知らずの最高責任者にしか聴こえないものだったのだろう。

 東郷さんが正しければ隘路は対馬近辺だから、そのあたりで索敵と待ち伏せを行うことになろう。実際そうなった。ところで、先ほど挙げた予想図も絵によって微妙に航路が異なる。日本海行きも、例えばNHKのドラマで使われていた海図では、台湾と福建の間を矢印が進んでおり、すなわち大陸中国の海岸沿いを想定している。

 しかし結局、ロシアの艦隊はほぼ一直線に最短距離を進んだ模様である。つまり台湾よりも東側を進んだわけで、飛び石のように並ぶ沖縄列島の近海を通過するときは、比較的、島と島の間隔が広い久米島と、宮古島の間を抜けた。このあたりなら当時の北海道方面より海図が頼りになりそうだし、何より敵将の目的がここまで来たら一刻も早くウラジオの軍港に行くことにあったことを示すものだろう。


 この章の最初の主人公である奥浜牛は、小説によると栗国島の出身とある。行ったことはないが、一度だけ飛行機の窓から見たことがある。本島の南端と慶良間群島とで三角形を形成するような位置にある小さめの島だ。確か、那覇から久米島に行く途中、機内放送で右側の窓際のみなさま(私を含む)に対し、眼下の洋上にこれらの島々が見えるという観光ガイドがあったのだ。行ってみたいなと思った。

 彼はこの年、二十九歳とある。1905年から29を引くと1876年でネズミ年(私と一緒)なのだが、翌1877年が丑(ウシ年)であり、ここから数え年ではかると日本海海戦の年は二十九歳である。牛というのはあまり大和にはない名前だが、辰さんや寅さんなら昔はよくいたし、牛もあるいは十二支にちなんでのものかもしれない。


 もっとも後段で登場する久松の漁師達の下の名も、漢字一文字の独特のものなので、沖縄には沖縄の命名法というのがあるのかもしれない。なんせ、幕末維新のころ沖縄は琉球王国という立派な外国であり、ついでに言えば私が小学生のころはアメリカ領であった。確か日本が初めて飛ばした国際線旅客機は日本航空の羽田発、那覇行だったと思う。当時はパスポートが必要だったはずだ。

 沖縄は地理的にも歴史的にも極めて特別な地域なのである。先月、この宮古島に行ったときも、酒だったか料理だったか名前を訊いたところ、地元のうら若い娘さんが「土地の言葉を、ひらがなで表すのは難しくて...」と恥ずかし気に、かつ誇らしげに語っていたのを思い出す。

 なお、ペリーの黒船はてっきり咸臨丸と同じように太平洋を渡って来たのだと信じていたのだが、ずいぶん歳をとってから間違いであることを知った。実際は反対側を回って来ている。つまりバルチック艦隊と同じような航海だったのだ。日本に来る前に琉球王国にも行き、圧力をかけている。沖縄のどこかで、それを知った。


 司馬さんは「この時代の日本の田園国家の人間を示す極端な例」として宮古島のエピソードを収録している。私は沖縄が日本ではないなどと言うつもりはないが、それにしても彼ら、戸板一枚下は地獄という職場環境に日々身を置き、それに加えてこの行動を成し遂げて黙ってしまった若者たちと、日比谷で焼打ちをしたり乃木さんの家に投石したりする連中を一緒くたにするつもりもない。

 せっかく何度も宮古や石垣の周辺で楽しませてもらった恩もあることだし、これからしばらくは「宮古島」の章をゆっくり読もう。露軍の兵士たちが近づきつつあることは、下手をすると戦争沙汰に巻き込まれかねない海の駅、沖縄にも情報が届いていた。さて、奥浜牛は船を出すのか。



(この稿おわり)






宮古島の海中にて  (2014年9月11日撮影)




 おのづから仇のこころもなびくまでまことの道をふめや国民   

   明治天皇御製 (推定ポーツマス条約直後)

















































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