正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

海の向こうから戦がやってきた  (第30回)

 奥浜牛の故郷、粟国島の人々は出稼ぎに出る人が多くて進取の気性に富んでおり、彼もその一人であったと作者は書く。まだ船主になるほど裕福ではなく借り船だったというから、農業でいうと小作農のようなものか。当時の彼は那覇に住み、山原船に雑貨を積んで宮古島に売りに行く仕事をしていたという。

 つまり奥浜牛は漁師ではなく、海運の商人だったわけだ。山原船には「やんばるぶね」というルビが振ってある。ヤンバルクイナのヤンバルと同じ語源だろう。沖縄本島の北部を指す地名。山原船とは見たことがないが、ネットによれば二本マストの木造小型船舶で、中国由来のジャンク船。飛び立つ直前のテントウムシのような二つの帆で沖縄の海を渡る。

 
 今もあるかどうか知らないが、当時の那覇水上警察署という警察があったらしい。海の近くだったそうで、学童疎開の悲劇として知られる対馬丸は、このあたりから出航したらしい。奥浜牛はそこに住んでいたのか、そのあたりから出航していたのか、この水上警察署の張り紙を読んだ。

 いわく、現代語にすると(1)露国の艦隊が回航中のようなので、それらしきものを見かけたら最寄りの役所か警察へ届け出ること、(2)海上に箱型のものがあったら、それは水雷なので危ないから近寄らないこと。水雷が箱型であったとは初めて知った。奥浜牛の場合、(2)には縁が無かったが、(1)に該当してしまい、あいにく「最寄り」もなにも大海の上であった。


 ともあれ、出航するなとは書いてない。1905年の5月25日(本人の記憶)、南西300キロにある宮古島に向かって、奥浜牛は少人数の水夫を引き連れて海に出た。この日は曇天であるが絶好の風向きでしかも風に力があり、これなら予定より早く宮古島に着くかもしれないと彼は思ったそうだ。しかし、この風のせいでその前に厄介なものに出会うことになる。

 山原船は夜中も走り続けた。翌日の朝は霧の中で明けたという。奥浜牛は身だしなみの良い青年で、朝飯前にその辮髪に櫛を入れた。先ほどのジャンクといい、この辮髪といい清国の影響なのだろうか。そういえば昔、石垣の寿司屋さんで晩飯をいただいていたとき、テレビに天気予報が映った。

 石垣島西表島が仲良く並ぶ八重山諸島がある。右に宮古、左に与那国、上に尖閣、それらのさらに左側に台湾がどーんと映っている。しかも驚いたことに、その南にはルソン島らしき島々もある。「あれ、フィリピンですか?」と間抜けな質問をした。「九州より近いのよ」と寿司屋のおばちゃんが笑った。何度も行ったなどと書いておきながら、私は沖縄のことを殆ど全く知らないようである。


 この朝、島のようなものを見て、奥浜牛は宮古島だろうと思った。ところが相手がどんどん近づいてくる。見たこともない旗を掲げた巨大な軍艦集団に囲まれたような形になった。しかも夜が明けていたので見つかってしまった。もっとも夜中にすれ違ったら、見つけてもらえず衝突して沈んでいたかもしれない。

 しかし彼ら船乗りは弁髪姿であったうえに、中国人が好きな龍に似ていなくもないムカデをあしらった絵柄の旗を立てていたらしい。巡洋艦に乗った露軍の兵士たちは中国人と勘違いしてくれたようで、「キタイスキー?」と声をかけただけで、何せ忙しいから行ってしまった。


 ちなみに、西洋などで中国・中国人を意味する言葉は二系統あるらしい。一つはお馴染みの秦国由来の「チノ」とか「シナ」とか「チャイナ」である。もう一つあるそうで、契丹からきたらしく、航空会社名の「キャセイ」とか、この「キタイスキー」も多分そうだろう。

 司馬さんによれば、この日は奥浜牛の記憶による25日ではなく、艦隊の移動状況からして22日だろうと推定している。他方で、宮古島庁に勤務していた大野楠生さんというお方の日記に、5月26日の記録として或る船頭が「敵艦」と出くわしたという大ニュースを持ち込んできたという記事が見つかった。


 最寄りだったせいで、島庁は大混乱に陥ったに違いない。22日に遭遇して26日に報告したということは、彼らの船旅は船上で何泊もする航海だったということだ。この日記も含め、奥浜牛や久松の漁師たちの逸話は、いわゆる郷土史家たちにより発掘されている。

 恐竜の骨も、昆虫の新種も、新たな小惑星も、多くが民間人(素人)の熱意と行動力と物好きにより発見されている。他にも本件と似たような出来事があったのかもしれないが、今のところ見つかっていないようだ。したがって現時点で、奥浜牛たちは日本人として初めてバルチック艦隊を見た。



(この稿おわり)





宮古島の上の雲  (2014年9月11日撮影)










































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