正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

宮古島発 石垣島行カヌー  (第32回)

 文庫本第七章に出てくる海の男たちは、中学のころからの愛読書「水滸伝」に出てくる浪裏白跳の張順、九紋龍史進、阮の三兄弟といった物騒な連中を思い出させる。彼らも常日頃は大宋国という国家の一員として生業にいそしんでいるが、事ここに至ったとき一つしかない命をどう扱うかは、別の問題として無理なく両立させる。

 司馬さんは彼らの行動と寡黙の原理を、国家の重さ、官の重さという「坂の上の雲」を一貫して流れている明治時代の庶民の意識という観点から捉える。それはそれで間違いではないと思うが、全てかどうかは別であるような気がする。この続き物の感想文で上手く言えるかどうか分からないが、重い国家が出現したのは間違いなく因果関係でいう「因」だが、十分条件たり得るのか。


 奥浜牛や垣花善やその仲間は、梁山泊あたりで生まれ育った連中や、幕末維新の薩摩の侍と同様、たとえば東京あたりからみると同じモンゴロイドでも南方系と言えそうであり、特に沖縄と鹿児島は近い。男が命がけの決断するときに、司馬さんの好きな用語で言えば土着性のようなものが発揮されるのであれば、何かしらその共通要素があるのかもしれない。

 薩摩は律令制の昔から日本国の有力な地域であるが、他方で、沖縄は垣花善たちが生まれた頃まで日本から見て外国であり、ときには経済的弱者として、ものの本によれば収奪の対象になった。今や薩摩は天下を取ったに近い勢いを持ち、片や沖縄はほとんど太古と変わりないような時の流れだと作者は語る。何が同じで何処が違うのだろう。


 小説に戻ると、奥浜牛はどえらい置き土産をして去った。島で一番偉い島司さんは、普段、一番の権力者として君臨していたのだろうが、いきなり一番の責任者になってしまった。手元の書類には奥浜と捺印されており、担保は彼の首。しかも、国運を左右する緊急情報がもたらされたという一大事であることは分かるが、まず誰に通報してよりか分からず、次にその手段の見当がつかない。

 こういうとき、うまいこと他者に丸ごと委託するのが最終決定権を持たない政治家や役人の腕の見せ所である。誰かが石垣島に通信施設があると言い出した。上記二つの悩みを一挙に解決する名案であった。あとは石垣さんにお任せとする。残る課題は、宮古島から石垣島に伝える具体的な方策であった。


 奥浜牛は沖縄本島から宮古島まで雑貨を行商に行くのが生業であるから、それに必要な船舶と操船技術とスタッフを有している。それに彼らは、通常の航海ルート上でバルチック艦隊と出くわした。命が危なかったのは艦隊に見つかってから別れるまでの間であり、その前後は要らぬ苦労こそしたが、通常の行動範囲内である。

 しかし、この火急の事態についうっかり島庁を訪れてしまった垣花善にしてみれば事情はまったく異なる。日々の職場で起きた出来事ではない。奥浜牛と違って逃げようもなく命が危機にさらされたのではなく、これからいかが?と訊かれてしまったのだ。そして、普段から手掛け慣れている行動ではない。


 奥浜牛と垣花善の共通項を無理して求めてみると、二人は自分だけで緊急事態に直面したのではなく、彼らの判断と行動ぶりを見ている者がすぐそばにいる。二人はリーダーであった。自らの言動をもってして若い人たちに人の道を示す立場である。

 奥浜牛はロシア艦隊の通過を見たが黙っているという選択肢があったし、垣花善に至っては最初から関係者になるのを断る手がある。でも二人ともそうしなかった。逃げたとき最終的には、戦犯とか非国民とか社会的制裁という形で彼らを苛むことになるだろう

 だが、二人はそういうことを恐れて(つまり国家や官の重い仕打ちを避けるために)、こういう言動を迷わず選んだのだろうか。違うような気がする。それでは物語が面白くないというのもあるが、何だか当人らに対して大変、失礼な気がする。私の知り得ない崇高さがあるような気がする。


 垣花善は若い漁夫で、松原という地区の世話人をしていたため、このとき島庁に顔を出したのが運命の分かれ道であった。この役目のため普段から島司とはひんぱんに会う仲だったので、わらにもすがりたい窮地に陥っていた島司に、石垣島への電報配達を頼み込まれてしまったのである。電信はない。昔ながらの飛脚や早船の世界である。ご持参くださいということだ。

 作者は垣花善が「元来義侠心に富んだ勇敢な人物として知られていた」と書いている。東日本大震災で被災地から首都圏に転業してきた寿司屋のおじさんが、漁師のお客は気が荒いが、その点ここらの人は穏やかだねと言っていたのを思い出す。そんな荒くれ者を若くして束ねる男であるから並の者ではない。「やらねば仕方ありますまい」と受けた。

 
 義侠心というのは辞書により若干の表現の違いこそあれ、一言で言えば正義の味方の資質である。弱きを助け強きをくじく。今や日本の危機だと島司は訴えたのであろうか。嘘ではないが、垣花善に日本を救えというのか。垣花善は、そう受け止めた。だから立ったのである。仮に彼が人命優先で動いたなら、若い妻や幼い子がいる漁師を招集したりすまい。

 旅順口の封鎖作戦も応募者多数につき人選を必要としたが、係累のない者が優先されたと書かれている。軍隊でさえそこまで先の心配をするものなのに、垣花善の場合はできるだけ早く人と物を集め、石垣島に到着する確率を高めるために最前の腕前をそろえ、チームワークを構築しなければならない。こうして併せて4名、弟と従兄弟と友人が選ばれた。


 奥浜牛は粟食島の出身だが、ここ宮古市でも粟が主食だった。垣花善も妻のカマドを泣かすことになる与那覇蒲も、妻女に粟を準備せよと命じたのみで用件も告げずに黙って持ち去り、戻って来てからも二十年以上、何があったのか黙っていた。妻らも訊かなかったらしい。カマドはあちこちの四つ角で村人が、夫らが死出の旅路に立ったことを知らされたのに、誰も詮索しなかったようである。

 おそらく生還した奥浜牛や垣花善たちには、いわく言い難い荘厳な雰囲気が漂い、物見高く好奇心丸出しで何があったか聞き出そうとしようものなら、その場で天罰が下るような畏怖が感じられたに違いなか。


 垣花善たちは、すでにこの季節、最盛期を迎えていたトビウオ漁に出て戻ったばかりであったらしい。もう疲れている。それでも彼らは長さ約5メートル、幅は最大でおよそ1.8メートルという小さな「くり船」に乗って、このブログ前回の地図にも載っている与那覇湾から出航した。くり船とは杉の木をくりぬいて、鯨の油で水止めをしたカヌーである。

 この種のくり船は、かつて太平洋の島国で何度か見たことがある。中には椰子の幹をくり抜いただけという一人乗りのカヤックみたいなボートもあった。それを使って沿岸漁業に出る。「年に数人は戻ってこない」と地元の人は、ごく普通の口調で語った。沖縄の島々は彼らの島と同様、大洋に浮かぶ孤島である。海は荒いときには荒い。


 いつもなら東シナ海に出て、西よりの安全なルートを辿ると書いてあるから、伊良部島多良間島となどの島伝いに石垣島へと往復するのだろう。人命第一である。だが今回は最短距離を選び、東よりの太平洋ルートを選んだ。途中に一休みできそうな場所はない。時には風を得て帆を張り、そうでなければ丸太を削った櫂をこぐ。

 水先案内人は与那覇蒲であった。羅針盤などない。与那覇穂の目と鼻が風況や海流や天候や星の位置を逐次確かめながら、相棒の命を預かって船の針路を選んでいく。海上15時間、着くには着いたが行き先の八重山の町には程遠い浅瀬に乗り上げてしまった。垣花善と与那覇蒲は残りの三人を置いて、ここから夜の道を走り出したというから凄い。


 国家機密にもいろいろ種類と重要度があるだろうが、これは漏らしてはダメというコンフィデンシャルな情報は、要するに黙っていればよい。しかし、本件のような敵軍本体の位置とその日時を示すインテリジェンスは伝わるべき人に伝わってこそ国家機密であり、それが遅れて敗戦になったら宮古島の関係者は、困る。

 荷揚げの早さを競うトビウオ漁、15時間ぶっ続けのカヌー航漕、そのあと休みも無く垣花善と与那覇蒲は、夜中の見知らぬ島の道を陸上30キロ走った。これだけでも、スリー・クウォーター・マラソンである。移動距離はともかく、この連続技及び時間との競争という過酷さを加えた化け物トライアスロンは、観衆も報道もなく、その先に栄誉も報酬も約束されていない南の島で、どうやら本当に起きたらしい。




(この稿おわり)








宮古島にて、写真二点 (2014年9月撮影)












































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