正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

子規の「道灌山」  (第34回)

 しばらく日露戦争ばかり話題にしていたので、この戦争の直前に亡くなった子規を久しぶりに話題にしたくなった。子規は散文の名手でもあり、司馬さんは明治以降の文体の手本の一つとなったと力説してやまない。

 私には文体論はよく変わらない。でも時代を問わず、後世の文体に影響を与えただろうなと感じるときがある。簡単に言うと、読みやすい。この判断基準でいくと、古くは西行の歌、明治ではやはり漱石の小説は分かりやすい。子規は擬古文的であると思うが、中学校で習った古文の知識程度で充分、楽しめる。

 
 子規には紀行文が多い。出歩くのが好きな人で、漱石のような書斎の人という(私の勝手な)イメージはない。典型は日清戦争の従軍記だったが、帰路に吐血し、その後、彼の体調は徐々にではあったが悪化の一途をたどった。従軍の翌年、1896年(明治二十九年)、子規はそれまで腰痛の原因はリューマチだと考えていたのだが、脊椎カリエスという重病であると医師に宣告されてしまう。

 彼は慶応三年の生まれなので、明治の年号と年齢が重なって数えやすい。すなわち明治二十九年は、子規が満29歳になる年である。このあと35歳で亡くなるまでの約6年間、若き晩年において旺盛な執筆活動と食欲を見せる。一連の「歌よみに与ふる書」が世に出たのは1898年、31歳のとき。そして、今回のタイトル「道灌山」が新聞日本に掲載されたのは翌1899年である。


 この「道灌山」はごく短いエッセイで、散文(歌の説明など)と歌が交互に出てくるという構成になっている。「歌よみ・・・」でも分かるように、それまで俳句中心だった彼の短詩創作に歌が加わってきた時期のもので、「道灌山」の最後に「歌修行の遊び今日が始めてなり。」と締めくくっているところをみると、相当の手ごたえがあったに違いない。

 この道灌山は、小欄でも「雨の坂」を取り上げたころに話題にしたし写真も載せた。子規の「道灌山」が好きな理由は二つあって、一つ目は、要は拙宅の近所なので自然と親しみが湧くからである。もう一つは、多種の花が出てきて活字だけなのに色彩が豊かなのだ。子規は花や虫や雲や山が好きで(それも空想上の花鳥風月ではなく自分の目で見たもの)、下手な写真などより遥かにカラフルなのだ。


 文章は短距離走のように鋭くリズミカルに始まる。「九月二十九日、晴れて快し。遊意ようやく動く。」と平文で一行、そのあと「青空に聳ゆる庭の葉鶏頭は我にあるけといえるに似たり」と最初の歌が来る。わが家の本には葉鶏頭に「カマツカ」というルビが振ってある。両者は別の植物なのだが、子規は鶏頭や葉鶏頭が大好きだったので、ここは漢字を採ろう。

 庭の葉に「あるけ」と励まされて外出の気分になったが、すでにこのころの子規は自力で歩けない。この日は車夫に背負ってもらい人力車に乗り、後年、彼が葬られることになる田端の停車場近辺まで往復した。外出一番、さっそく今もこのあたりに多い芙蓉の花を見つけて喜ぶ。


 次の文が「御陰田を過ぐるに」で始まっているのは、子規の家のそばに江戸時代は上野寛永寺管主が住む御陰殿があったからで、現在ではその屋敷跡と、上野から根岸に至る御陰殿坂がある。この坂は我が家のバルコニーから直接見える。子規は目に留まったものを次々と記していく。

 音無川。「坂の上の雲」にも出てきました。やきいも屋。さすが食道楽。秋海棠。この花は良く見かけるので今日この日のために写真を撮ろうとこの夏は出かける度に探したのだが、こういうときに限って見つからないものだな。金杉。これは植物の名ではなく、日暮里近辺は江戸時代の地図で見ると、「本谷中村」と書いてある場合と、「金杉村」となっている場合とがある。


 秋海棠はベゴニアと似ているそうで、近所で写した左の写真の花と、その右に載せた、或る地上自治体のサイトに載っていた秋海棠の写真の区別がつかない。

 いまは台東区の金杉通にその名をとどめている。むかし音無川が流れていたのを暗渠にし、その上を走る比較的、広い道で、かつては都電が走っていたそうだ。あまり自慢にならないが、かつて失業していたとき雇用保険の手続きのため、この道を通って職安に通ったものである。「われ昔よくみて知りし金杉のいも屋の庭の秋海棠の花」と子規は歌う。


 その並びに三味線の師匠が住んでいると子規の記録にある。実は今も三味線教室という天然記念物的なものがその近辺にあるのだが、そのご先祖なのかどうかまで知らない。琵琶の木あり、続いてお馴染みの芋坂の団子屋がやっぱり出てくる。「根岸に琴の鳴らぬ日はありともこの店に人の待たぬ時はあらじ。」と子規の評価も高い。

 秋の小道は紅白の百日紅山茶花、露草と、今も私の目を楽しませてくれる草木に囲まれていたようだ。「左へ曲がれば乞食坂」と書いてあるが、この坂は今や「御殿坂」と立派に改名されてしまい、JR日暮里駅の北口が面している。

 森まゆみ「谷中スケッチブック」によれば、昔は本当に乞食が並んでいて、上野や谷中のお寺方面から今の三河島駅あたりにあった斎場に向かう行列に物乞いをしていたらしい。この斎場は合併して引っ越し今は町屋にあるが、三河島時代に子規が絶賛していた樋口一葉がここで荼毘に付されている。


 最終章「雨の坂」にも出て来た田端の坂を登るにあたり、人力車上の子規は生きた心地がしなかったようで正直にそのとおりを写生した一首を残しているが、坂の上に立った途端に意気軒昂、見下ろす田端駅に出入りする人々を「ガリバーの小人島かも箱庭の」などと詠い、筑波山もここより低く見えるなどと高吟している。

 道灌山の古びた茶屋のあたりでは柿を喰った。ふと見ると名を知らぬ赤黒い花が咲いている。近くになぜか植木屋さんがタイムリーにいたようで何の花かと訊いたところ、「くさぎ」ではないかという返事であった。私も知らない名だが広辞苑やネット情報によると、漢語では「海州常山」といって、その葉を煎じて漢方薬にするらしい。名だけは知っていたらしい子規は早速、そのまま歌にする。

 「其木知りぬ其名知りぬくさぎとは此名なりけり此木なりけり」


 諏訪神社の横を通って谷中の墓地を横切り、御陰田の坂を下りるという私の散歩コースそのままの帰路をたどって、子規は坂があるたびに怯えながらの長旅を終えて、無事、根岸の自宅に戻った。よほどこういう遠出が気に入ったらしく、このあと本郷や小石川や亀戸にも足を延ばしている。





(この稿おわり)





拙宅の芙蓉  (2014年10月1日撮影)





















































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