正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

桑名にいたころ  (第35回)

 しばらくお休みしておりました。仕事関連の事情です。少しずつ再開するにあたり、これまで海軍と子規の話題が大半だったが、しばらく陸軍のことを書こうと思う。中心となるのは、前にも好きな場面だと記した覚えがあるが、烈風朔雪吹きすさぶ黒溝台の会戦である。

 小説「坂の上の雲」の中で(別の文学作品でも構わないが)、最も印象的で忘れがたい文章を挙げよと言われて、すぐ応えられる人は幸せであろう。私もその一人。それは文庫本でいうと第六巻に出てくる。司馬遼太郎はまず、この稿は戦争描写を目的とするのではなく、人間の或る種の能力や精神について書こうとしているとお断りを入れている。

 それに続く文章が、これから先の何回かの感想文の土台にもなっている。「しかし、黒溝台会戦の戦闘経過の惨烈さをつぶさにみていくと、かれら東北の若者たちが全日本軍を大崩壊から救ったその動態のひとつひとつを記述したいという衝動を抑えきれない。」


 これから先、青森や岩手、弘前や盛岡、東北から飛び出して桑名や旭川や松山や長岡の地名まで出すが、全てはこの何度も読み返した章の影響からきている。ではまず遠回しに桑名から始めよう。私はその地に、二十代の中ごろ2年半ほど住んで働いていた。

 ただし残念ながら忙しかった。この忙しさは、その後の職業生活に役立つことになる大切なことを、いろいろ教えてくれたのだが、桑名のことを詳しく知る前に転勤になってしまった。


 今なお覚えているのは飲み屋街の様子、お祭りの日や休日に歩いたいかにも城下町らしき古い街並み、木曾三川の河口風景ぐらいなのだ。桑名は古くから栄えた港である。東海道五十三次では珍しく港町が宿場になっていて、ここから先の東海道は伊勢湾の海上を進む。

 川が運んだ栄養分でハマグリがよく育ち、子供のころから聞き知っていた「その手は桑名の焼き蛤」の語源(?)になった。当時、知り合った地元の経理部長さんによれば、彼が幼かったころ桑名あたりの海岸は裸足で歩くとハマグリが足の裏に突き刺さり、痛くて歩けないほどだったという。だが高度経済成長ですっかり滅びた。


 お祭りのときは、うちの会社でも神輿担ぎの手伝いを出し、ついでに盆踊りまでやることになった。二三曲覚えた歌の中に、桑名の殿様か殿さんかで始まるお囃子のような歌があったのを覚えている。関ヶ原が終わったころ桑名藩の殿様は、本多平八郎忠勝であった。彼の名は「坂の上の雲」の第八巻「敵艦見ユ」に出てくる。

 ただ一隻を以てバルチック艦隊に立ち向かい、索敵行動を続けた巡洋艦「和泉」の行動を、大本営参謀の小笠原長生(名前負けせず太平洋戦争後まで長生きした)が、小牧長久手における本多忠勝の果敢な戦闘行為に例えている。小牧長久手の戦いは、引き分けに終わった持久戦なので時代小説には余り出てこないのだが、吉川英治の「新書太閤記」がお勧めだ。終わり方も良い小説である。


 本多家は出世して転封となり、そのあと多少の出入りはあるが、家康の異母弟の家系である松平氏が幕末まで続く。後世、久松松平家とも呼ばれたこの家系は、読者もご存じのように伊予松山藩主と同族で、養子のやりとりまでしているから、まさしく親類縁者であった。久松家のことは「坂の上の雲」の序盤において何度か話題にされている。

 幕末では会津とともに最後まで戦った桑名とくらべ、松山は長州征伐あたりまでは頑張ったが、お後が宜しくなくて敵軍にされたうえに、桑名や会津にまで小馬鹿にされるようになったと、どこかで読んだ覚えがある。


 離れて遠き満州の黒溝台に出てくる戦さ上手の個性豊かな将が二人、久松家の士族の家に生まれている。戊申のときの桑名軍で長岡方面まで転戦し勇名を轟かせ、死して司馬さんを走らせた東北の兵を率いて参戦した立見尚文と、彼が救出に向かうことになるほどの激戦に耐え続けた秋山好古である。

 彼らの戦闘経過を読み返す前に、あちこち寄り道しようと思う。まずは時計の針を1902年に戻す。日露戦争の勝因の中でも、格別の存在感がある日英同盟が締結され、正岡子規がこの世を去った年、陸軍は仮想敵を露国に絞って戦争の準備を始めていた。この年の1月下旬、日本列島は異常な寒波に襲われて、南西諸島を除き全国で氷点下を記録するほどの厳冬になった。つづく。



(この稿おわり)





バルコニーから見た秋の雲  (2014年10月3日撮影)
 


















































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