正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

八甲田  (第36回)

 数年前に何かのセミナーか研修の場で、隣席の人と自己紹介がてら雑談を交わしたことがある。引き締まった顔つきの少し年下の男であった。彼は旭川の出身ですと言った。私は大学卒業直後の旅行で北海道に行ったときのことを思い出した。

 2月中旬で寒かった。旭川ではアイヌの資料館のようなところを訪れた。建物の前に椅子を置いて、眉が太く彫りの顔立ちのおじさんが、見たことのない衣装を羽織って座っていたのを覚えている。

 もう一つは雪の結晶の思い出だ。学生時代を過ごした京都や、いま住んでいる東京に降る粉雪とは出来が違う。直径数ミリの雪が、顕微鏡でしか観られないと思っていた六角形のままで降りてくる。手袋で受け止めても寒さでしばらくは溶けない。いつまで見ていても飽きない自然の美しさ。


 旭川には日本一の記録があるのですと彼が言った。私は見当がつかず、しばらく相手の顔をのぞき込んでいた。ようやく彼が教えてくれたのは、日本での観測史上の最低気温が旭川で記録されたということだった。気象庁のサイトにも載っている。マイナス41.0度。1902年1月25日。2位が翌日の帯広。

 この帯広でしばらく働いていた友人の話では、彼や私のような南国静岡の生まれ育ちは寒さに弱いこともあって、友人の場合、零下20度を下回ると25度でも30度でも一緒であり、もう痛くて寒さの度合いが知覚できなくなるというから怖い。

 ともあれ、日本一ならもう少し自慢してもよさそうな感じだったが、その旭川の人は今一つ表情がさえない。その理由は本人が端的に答えてくれた。「あの八甲田の日です」。私には返す言葉がない。


 高校生の時、田舎の映画館で「八甲田山」のロード・ショウを観た。昨年亡くなった三國連太郎が見当はずれの指揮命令を出したとき、映画館に失笑が漏れたのを覚えている。私の両親の世代は、映画に参加しながら観ていたものだ。

 死んでいった兵隊さんたちが余りに可哀想で、読書好きの私が映画の原作である新田次郎の「八甲田山 死の彷徨」を読む気になれず、つい最近まで未読であった。だが、これを書く前に避けて通れず読んだ。


 2008年に東北の北の方に旅行したことがある。バスで十和田湖に行ったり、奥入瀬渓谷を歩いて山裾まで下りたりした。その翌日に時間ができて、バスや一部タクシーを利用して、八甲田方面を巡った。雪と風の舞う山頂にも行った。出かけるまでは単なる観光旅行であった。映画のことは忘れていた。

 天気の良い日だった。見渡す限りの雪原の向こうに、壮大な八甲田連峰の勇姿が見える。見とれていたらタクシー・ドライバーのおじさんが背中越しに語り始めた。「この辺を歩いたらしいですよ」。これだけで映画に出て来た猛吹雪の様子が脳裏によみがえった。

 助かった人も凍傷がひどくて、手足を切断したりで大変だったらしいと運転手さんは言う。知らなかった。ちなみに、いま地図を見ると、私たちが通過した道路は遭難した青森の歩兵第五連隊ではなく、同じころ同様の行動をとっていた弘前の歩兵第三十一連隊の経路だったかもしれない。


 民俗学者丸山泰明さんと仰る方が著した「凍える帝国」という本が良い評判を得ているとどこかで聞いて、これも読んだ。同書によると、このような陸軍歩兵による雪中行軍の訓練は、これが初めてではなく、記録が示されているだけでも東北や北海道で毎年のように行われていたらしい。

 この二冊の本を私なりに読んだところでは、弘前の連隊が少数精鋭で、且つ地元民に案内人を頼んだのとは反対に、青森の連隊は二百名を超える大人数で、案内人は付けなかった。一人が動けなくなると、それを助けるために十人ぐらいの負担が増える。こうして連鎖反応が拡がった。

 青森の第五連隊が出発したのが1902年1月23日。翌々日に旭川で零下41度の記録を残した寒冷前線が一行を襲うことになる。不徹底の企画と最悪の自然現象が重なって悲劇が起きた。


 これらの雪中行軍は、1902年という年号からも分かるように、日露戦争のための軍事演習であった。ただし私が勘違いをしていたような冬の満州で戦うための練習ではなく(少なくとも、それが第一目標ではなく)、この地域が戦場そのものになるときに備えてのものだったそうだ。

 すなわち、当時の公文書などによると、行軍の想定は、津軽海峡に侵入した露国海軍の艦砲射撃により青森の鉄道網が破壊された場合、八甲田山系を徒歩で縦断し、八戸方面等に至る。冬季は衣装、食糧、軍備、医療など、夏とは勝手が違うため研究と鍛錬が必要であった。


 日露開戦の2年前の時点で、日本が憂慮していたのは対馬沖の海戦ではなく、ウラジオストクにあるロシアの太平洋艦隊に北日本を襲撃されることだったのだ。ロジェストウェンスキーの艦隊は、第二太平洋艦隊と呼ばれたように言わば援軍であり、当初はウラジオ艦隊が目前の強敵であった。

 その後の情勢の変化で、ロシアはウラジオの軍艦を徐々に旅順に移動させている。黄海が最初の海戦場になったのはそのためだ。しかし、1902年の段階では、確かにウラジオストクからみると、一番近い距離にある東北・北海道こそ、最初の戦場になる確率が最も高いと考えられていたらしい。


 明治初期の陸軍の拠点は、例の鎮台さんである。六ヶ所あって、それがそのまま欧州風に、つまり外征用に「師団」と名を改めた。最初は東北に仙台の第二師団があった。追加で6師団が置かれて12師団制度になった。東北にも弘前の第八連隊が新設されている。

 1904年、この第八と旭川の第七師団だけを残し、日本陸軍は十個師団が海を渡った。私はなぜ強いと評判だったという北の兵を温存したのだろうと不思議に思っていたのだが、もしかしたら温存どころか本土決戦に備えて最初のうちは動かせなかったのかもしれない。


 小説「坂の上の雲」に、八甲田雪中行軍遭難の件は一言も触れられていない。八甲田の「はの字」もない。司馬遼太郎が知らないはずがなく、かえってこの沈黙が何かを雄弁に物語っているように思う。

 宮古島の章で、奥浜牛や垣花善たちが長く沈黙していた事情として、司馬さんはその時代の「官という存在の重さ」「国家の重さ」を強調している。異論はないが、この「官」や「国家」に軍も含まれることに戦後生まれの私は容易に気付かなかった。新田さんの言葉を借りれば「軍隊の怖さ」である。この話題、もう少し続けます。



(この稿おわり)





奥入瀬渓谷  (2008年2月3日撮影)





































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