正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

啄木と老将軍  (第38回)

 小説「坂の上の雲」を読み始めると、最初に出てくる人名は正岡子規である。例の十五万石の句が松山の紹介に使われている。子規にはトップ・バッターの資格がある。彼がいなければ、この小説は書かれなかったはずだ。では二番目の名は誰のものか?

 秋山兄弟を思い浮かべるのが順当であろう。だが、残念ながら信さんは三番目、淳さんに至ってはご両親の後塵を拝している。二番手は、石川啄木なのだ。ただし、子規の作風と対比するにあたって文学者としての名が挙がっているだけで、本人がストーリーに登場するわけではない。


 しかも、この時のみならず、最後に至るまで日露戦争時代の人でありながら、啄木の名は出てこない。子規大好きの司馬遼太郎にとっては、あまり関心のない作家だったのかもしれない。

 ただし、いま私の手元にある「歴史の中の邂逅7」において、司馬さんは「啄木と『老将軍』」という短い随筆を載せている。「老将軍」というのは、啄木の詩の題である。その寸評だが、やっぱり点は辛い。


 私が啄木の名を知ったのは、小学校の低学年のころで、校庭の片隅に先生が作ったのか小さな木の碑があって、「山の子の 山を思うがごとくにも かなしき時は君を思えり 啄木」とペンキの手書きがしてあったのだ。

 今も実家に明治文学全集という大全集があり、森鴎外から始まって30冊ぐらい並んでいて壮観なのだが、この中で初めて読んだのが、この句でその名を覚えた石川啄木であった。「一握の砂」から始まっている。いま見ると鉛筆で幾つかの作品に線が引いてある。


 数年前の我が家の新聞に、こんな趣旨の記事が載っていた。今と違って明治から昭和にかけての新聞や書籍などの印刷物は、大量印刷用の活字を使い、それを一つ一つ拾い上げて組み合わせていく活字工という専門の職人さんがいる。ワープロ時代を迎えて衰退してしまっただろう。

 新版が出るとき、啄木の本ばかり誤植が続出して問題になった。印刷工の目が涙で曇り、プロの作業にも間違いが起きるほどだったという。ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく。私が新入社員のとき或る東北出身の先輩が、上野駅に立つたびに帰りたいと心の中で泣くと言ってみえた。


 これがたとえ作り話であったとしても、主人公は子規では似合わず啄木を措いて他におるまい。ただし、啄木の作品は決して、センチメンタルなものばかりではない。革命のうたもあるし、数年前に「マカロフ提督追悼の詩」を知ったときには、これが本当に啄木の作品なのかと驚いたものだ。

 司馬さんは啄木研究者に、「老将軍」をご存じか、誰がモデルだろうかと訊かれたそうだ。正直にもマカロフは知っていたが、老将軍は知らなかったと書いて見える。早速読んだようで、私なりに簡単にまとめると、漢詩の下手なマネッコに過ぎないというような感想が書かれている。


 マカロフと老将軍は、司馬さんの文章でもネット情報でも、啄木19歳のとき、すなわち1905年の作品であるとされる。どうやら雑誌に同年1月に掲載され(正確には明治三十八年一月 日露戦争写真画報)、5月に詩集本として出版されたらしい。

 この「老将軍」には、敵が奉天を出たとあり、老将軍が沙河あたりにいるようなので、普通に読めば日露戦争時の日本陸軍の将軍をうたったものだろう。司馬さんもそう読み、時期的にみて前年秋に行われた沙河の会戦の報に接して作られたものだろうと推断している。さらに、叙事詩的ではないという理由からだろうか、モデルの詮索は「無用」と片付けている。


 そんなところだろうが、たまには天下の司馬遼太郎に異論を唱えるのも一興である。異論というほどの根拠はないのだが、何となく何か言いたい。確かに詩には沙河という名が出てくるが、戦場ではなく河川の名である。そして、日露の陸戦は渾河と沙河の近辺で何度も繰り返えされている。地名による特定だけでは弱い。

 時期的には確かに沙河の会戦のあとだし、このとき遼陽で奉天に敗走したロシア軍は、当然、奉天から出撃しているだろうから、この点でも平仄が合う。だが、私の印象にある啄木は、子規の写生ほど徹底してはいないかもしれないが、少なくとも仮想の花鳥風月を詠う古今集的な詩人ではない。


 だから、モデルの詮索をした。戦場にいる将軍だから、軍の長に違いない。だが、あいにく皆さん年齢が近くて、一番年上の野津道貫と一番年下の乃木希典の年齢差は8歳しかない。みな1840年代生まれで、六十代だから当時の軍人としては老将軍に該当し得る年齢層である。

 では、前回登場願った立見尚文はどうか。臨時立見軍だ。しかしこれがまた、彼を入れた5人の中で中央の3番目の年齢である。ただし、立見のみは中将で、中将としては現役最古参であるうえに、当の司馬さんが「黒溝台」の章で彼を「老将」と書いている。そして、黒溝台の会戦が行われたのは、啄木がこの詩を発表した1905年1月なのだ。


 年寄り扱いすると怖そうな人なので、こじつけもこの辺にしておくが、啄木と立見は全くの無縁という訳でもないことぐらいは、未練がましく書いておく。八甲田雪中行軍遭難事件が起きたとき、立見尚文師団長が現場(東北の軍部)の最高責任者であったことは前回触れた。遭難兵の大半が岩手県出身者であるとも書いた。

 この1902年1月の時点で、岩手出身の石川啄木は、旧制の盛岡中学に在学中だった。彼は義捐金を募って遺族や被災者に贈ったと複数の本で読んだ。彼も子規同様、書斎の人ではなく、行動の人であった。子規同様、結核に倒れ、若くしてこの世を去った。マカロフについては、いずれまた書きます。




(この稿おわり)


友がみな われよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ  啄木
















老将軍

 老将軍、骨逞ましき白龍馬
 手綱ゆたかに歩ませて
 ただ一人、胡天の月に見めぐるは
 沙河のこなたの夜の陣

 けふ聞けば、敵軍大擧南下して
 奉天の營を出でしとか
 おもしろや、輸羸をここに決すべく
 精兵十萬、将士足る

 銀髯を氷れる月に照らさせて
 めぐる陣また陣いくつ
 わが児等の露營の夢を思ふては
 三軍御する将軍涙あり

 發ひらいては、萬朶花咲く我が児等の
 精氣、今凝る百錬の鐵
 大漠の深ふけ行く夜を警めて
 一聲動く呼笛の音

 明けむ日の勝算胸にさだまりて
 悠々馬首をめぐらすや
 莞爾たる将軍の帽の上へに
 悲雁一連日に啼く








追記: 我が家では郵送方式のレンタルでDVDなどを借りて映画を観ている。八甲田関連の記事を掲載し終えた日にこの映画を借りる手続きをしたところ、翌日、健さんの訃報を聞いた。一日でも申し込みが遅かったら、しばらく会えなかっただろう。さようなら。


























.