正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

寅や、いっそお死に  (第42回)

 
 吉田松陰弘前に行ったことがある。松陰吉田寅次郎は、司馬作品でいうと跳ねっ返りの弟子、高杉晋作と入れ替わりで「世に棲む日日」の主役を務めてもいるのだが、「坂の上の雲」においてはすでに故人でありながら、乃木大将の兄弟子というお立場で、その名が出てくる。

 乃木さんもこの先輩と同じように、教育者の道を歩んだら良かったのにと余計なお世話と弁えつつ思う。実際、後年、学習院の院長や後の昭和天皇の家庭教師をしていたころの彼のエピソードのほうが、余程いきいきとしている。


 この二人の学問の師は寅次郎の父の弟で、つまり血の通った叔父さんにあたる玉木文之進という長州のお侍であった。厳しいなんつうものではなかったらしい。寅次郎の授業中の態度がちょっと悪いという程度で子供の甥っ子を殴り倒す。

 さらに激すると窓から外に放り投げ、崖から突き落す。体罰どころではない。虐待でも表現が甘い気がする。寅次郎の母は元気で明るい人だったそうだが、可愛い我が子が受ける余りの仕打ちに、寅や、いっそ、お死にとつぶやいたという逸話が紹介されている。

 幸い寅さんは死ぬこともなく成長し、学問好きを評価されて毛利家のお江戸桜田門にあるお屋敷付きの国費留学生になった。ところが他藩の学友から東北に旅すると聞き、いても立ってもいられなくなったらしい。


 松蔭が得ているパスポートは江戸での留学用のみであり、東北旅行のビザはない。藩邸に頼み込んだらしいが動きが悪く、朋が遠方へ至る日は時々刻々と近付いてくる。松蔭の師匠、玉木文之進は単なる教師では無く、最期まで行動の人であった。その教えが、とんでもない時に結実する。

 松陰は脱藩した。密出国の重罪であるが、後の本人の言動と比べたら散歩のようなものだろう。彼は松尾芭蕉と逆回りで会津を横切り日本海側を北上し、芭蕉よりも遥かに長く遠くまで、みちのくを歩きに歩いた。


 旅の先々でいろんな人たちと語り合ったようだが、弘前では伊東広之進という青年と会った。ペリーの黒船が侵略してきて江戸をはじめとして国中が大騒ぎしていた段階で、松陰の慧眼は、クジラ漁の交渉のためペリー艦隊だかペリカンだかが来る前から北日本沿岸に出没していたロシアに対する国防を懸念している。

 後に日露戦争という形で実現してしまった彼の先見の明を、徳川幕府は一刀両断に切り捨てた。浴びたのは返り血どころではなかったのだが、長くなるので先に進もう。と言っておいて、さっそく脇道に逸れるのだが、松陰と私は弘前に限らず地理的に妙な縁がある。

 
 生まれて初めての山陰旅行では、萩の出身の同期に連れられ、再建された松下村塾を見てきた。小さくて綺麗な小屋だった。その二三年後に就職したとき、初めての職場は日本橋小伝馬町の駅に近く、そこに千葉の松戸から通勤した。
 
 先に書いた脱藩のあとで松陰は松戸で最初の宿をとっている。小伝馬町には安政の大獄で放り込まれた獄があった。刑死した小塚原と最初に葬られた回向院は、現在の拙宅から歩いていける距離にある。前に世田谷区民だったころ、松陰神社にお参りしたことがある。桂小五郎高杉晋作が、武蔵野にあった毛利家の別荘地に改葬したものだ。

 さて、彼の旅先に戻ろう。弘前で語り合った伊東広之進の実家は、津軽藩藩医であった。弘前にはほかにも陸家という珍しい苗字の藩医の家系があり、陸羯南はこの家の出身である。長くなったので、以下、次号。




(この稿おわり)





つくばの松葉  (2014年12月15日撮影)
































































.