正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

門下生  (第44回)

 
 弘前の伊東家が東京の山県有朋に書を頼み込むにあたり、その仲立ちを工藤さんという代議士に依頼して、書が届いたらば和尚の今家が伊東家に送るという三年五年計画が整った。その矢先に山縣さんから工藤代議士に早速、取りにおいでとの仰せである。

 これほど早くかと驚く工藤議員に対して、山縣閣下は早いのが不満なのかと絡んできた。さすがは議員先生、感激のあまりでございますと取り繕いしに、山県有朋おもむろにのたまひて曰く。

「他の連中はこの山縣の字が欲しいに過ぎん。お前のは恩師吉田松陰先生に由縁のある額だから俺は急いで書かなければならない。一刻も早く持って帰って呉れ」。今東光はその実物を見た。「他の連中」の額なら欠かさないであろう肩書き「大勲位公爵元帥」は見当たらず、小さく「門下生有朋」とある。


 山縣有朋という人は、巡り合わせに恵まれたお方というのが私の印象である。彼が松下村塾の門下生になって間も無く、恩師吉田松陰先生は刑死した。かろうじて間に合っているのだ。奇兵隊の幹部に出世したところ高杉晋作の挙兵があった。

 維新後は陸軍長州閥のナンバー2になった途端に、領袖の大山益次郎が暗殺されて繰り上がり当選。ツートップの西郷が内戦を引き起こし、ようやく近代的な武装が整ってきた鎮台さんを率いて、これを鎮圧し、日清戦争では将となって快勝。日露戦争には陸軍の総責任者として臨んでいる。


 司馬文学の愛読者には、山縣有朋と聞けば陸軍の巨魁、法王、妖怪といった負のイメージが付いて回る人も少なくあるまい。されど「坂の上の雲」における山縣参謀長は意外と、と言っては失礼かもしれないが、地道な実務家としての働きぶりが描かれているように思う。

 もちろん、山本権兵衛の活躍と評価に比べると影が薄いけれど。もう一つ、児玉源太郎が山縣さんの下では働けぬと言って上司を選んだというエピソードが載っている。どういうやり取りがあったのか描かれていないが、流石の山縣さんも無理は言わなかった模様である。現場監督には大山巌が親任された。


 最後に雑談。私は仕事で、九段や市ヶ谷あたりに時々出かける。九段坂から市ヶ谷の方向に靖国通りを歩いて行くと、右手に靖國神社が見えるあたりで反対側の千鳥ヶ淵のお堀端に、大きな像が二つ立っている。その一人が「ガマ坊」の大山巌で、私に言わせれば日露戦争最大の功労者である。

 いま一人が品川弥二郎である。ここでも薩長のバランス・オブ・バワーなのか? 言い過ぎかもしれないが、私は寡聞にして品川さんの業績を知らない。ただし、年少の門下生だった彼を、松陰先生が「やじ」と呼んでは可愛がったのは知っている。


 松下村塾のころの吉田松陰は、藩の重罪人であったそうだ。藩籍剥奪、家禄没収といえば、社会経済的極刑だが、実父の家に預かりの身となって、ある程度の行動には目をつぶってもらったようだ。とはいえ囚人は囚人、営利事業は御法度だったらしく、天下の松下村塾は受講無料だった。

 松陰はスネ齧りに落ちぶれることなく、自らの食い扶持は畑作で賄った。彼の塾は座学だけではなかったらしい。収穫の時がくると、松陰先生は塾生も動員して畑作業に汗を流しながら、青空のもとで歴史や思想を説いて聞かせる。あんなに楽しい時間はなかったと品川弥二郎がはるか後年、回想している。



(この稿おわり)






千鳥ヶ淵あたり  (2013年6月4日撮影)