正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

戦い済んで日が暮れて  (第47回)

 明治天皇は和歌の達人であられたらしい。私は和歌も俳句も不得手で、子規の著作も随筆ばかり読んでいる。ところで、半藤一利氏に「御製でたどる明治天皇日露戦争」という短いが読み応えのあるエッセイがある。

 いつか引用した「おのづから仇のこころもなびくまでまことの道をふめや国民」という歌も、この文中に収録されている。御製は日付や場所が特定しにくいものも多いそうだが、半藤さんはこれを日比谷焼打ち事件の報に接した際のものであろうと推察している。


 珍しく時期も戦場もまず間違いなく見当をつけられるものとして、「あたらしき年のたよりにあだのしろひらきにけりとつたえきにけり」という叙事詩のごとき内容の簡潔な歌がある。子規が生きていたら、どのように評しただろうか...。この詠み手を相手に、「下手な」と断じたら一大事。

 日露戦争は1904年に始まり、1905年に終わった。従ってこの1年半の戦時中において「あたらしき年」を迎えたのは、ただ一度ということになる。1905年1月1日、旅順の最前線では元日なのに日露の将兵が文字どおり死闘を繰り返していたその真っ最中に、要塞の主将ステッセルは降伏を申し入れた。

 
 「あだのしろ」とは「仇の城」である。難攻不落をうたわれた鉄壁の旅順要塞も、前年の12月、二〇三高地の陥落、日本軍による市街地や軍港への砲撃、コンドラチェンコ少将の戦死と続いて、とうとう「ひらきにけり」すなわち開城して降参した。

 旅順では陛下の好きな乃木や大迫、そして彼らが率いる兵が苦戦に苦戦を重ねてきた。それをどこまで明治帝がご存じだったか知らないが、少なくとも陸軍が立見の第八師団を満州の北と南のどちらに送るべきかという伺いを立ててきた時点で、旅順戦が日清戦争とは違う様相を呈していることが伝わったはずである。それがようやく陥ちたのだった。


 文庫本第五巻に出てくる「二○三高地」(にひゃくさんこうちと発音されることが多いが、昔のソロバンの先生の言い方を覚えている私としては、フタマルサンコウチのほうが耳に馴染む)という章によれば、日本軍が児玉も納得する状況で「占領」したのが12月5日である。さぞかし寒かったろう。降雪の記述も多い。同じころ黒溝台もまだ凍結状態であった。

 翌々日の12月7日、児玉に歌会をやろうと誘われて彼の部屋を訪った乃木司令官は、室内に観戦員の志賀重昂を見た。観戦員とはこの小説で初めて知った言葉であるが、従軍文学者のような存在で、記録や通訳の担当官であるらしい。

 志賀さんは地理ほか博学の人であるうえに、英語ができて公務員の経験もあるため選ばれたようだ。陸羯南の新聞日本にも記事を書いている。時期が重なっていたならば、子規の同僚でもある。


 12月11日、零下十度。戦場の視察に出かける際に乃木将軍は、玄関まで見送りに出た志賀さんに恥ずかしそうに紙片を手渡して、「あとでみておいてください」と頼んで去った。鉛筆書きで乃木得意の漢詩が書かれている。これが爾霊山の詩であった。同じ日、その山で戦死した乃木の次男、保典の遺品が届く。
 
 12月14日、乃木の日記によれば「夜来、雪五寸積ル」という天候の中、「二竜山ニ平佐ヲ訪ヒ(途ニ一戸ヲ訪フ)松樹溝ニ至り見ル」という行動をとった。ここに出てくる二つの人名は、いずれも金沢から旅順に来た戦友の平佐良蔵歩兵第十八旅団長と一戸兵衛第六旅団長である。

 
 乃木さんのご来訪は一戸さんの日記にもある。どうも日本人は真之に限らずお天気の情報を書きたがる民族のようで、一戸日記にも雪晴れの快晴で風もおだやかだったと書いてあるそうだ。そのあとに「乃木将軍、来営。余ノ掩蓋ニ入リ、急ニ筆ヲ呼ンデ、爾霊山ノ詩ヲ書シ、示サル。茶菓子ヲ出ス。」とある。

 掩蓋とは塹壕にフタをしたものだ。一戸兵衛はまだ野戦の最中なのである。とは言え上司が来た以上、お茶菓子くらい出さないといけない。急いて筆を求めたとは、ここまで来る間に詩想を得たのではないかと一戸さんは想像する。乃木司令官はこの作品の出来栄えに自信を持ち、部下に見せて歩いたのだろう。


 この戦場にお菓子とは珍しいと乃木が驚き、一戸はその調達方法を説明した。先日の休戦時に一戸旅団長は自ら、戦死した将兵の遺体収容に出た。ロシア側からも将校が同じ作業に来ている。ここは戦場であっても今は戦闘中ではない。一戸は丁寧に敬礼した。相手も敬礼を返し、さらに菓子を贈って来た。そのおすそ分けが乃木大将にも届いたのだ。

 乃木はこのやり取りを喜び、「記念ニ、二三顆ヲ携エ帰ラル」と相成った。ここで「二〇三高地」の章はプツンと終わっている。誰知ろう、この日が謂わば戦争の山場だったのだ。翌15日、二十八サンチ榴弾砲の一撃が闘将コンドラチェンコの五体を粉砕し、戦況は一気に日本側優勢となった。半月後、城は開き、宸襟を安んじ奉ることになる。



(この稿おわり)




2014年8月21日撮影。この110年前の1904年8月、第三軍は第一回の総攻撃に失敗して退却した。




 戦い済んで日が暮れて
 さがしにもどる心では
 どうぞ生きていてくれよ
 ものなと言えと願うたに

          「戦友」













































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