正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

ありがたく、このたび大命  (第51回)

 文庫本第四巻の「旅順総攻撃」によると、明治天皇は「人物の好み」があって、西郷隆盛山岡鉄舟乃木希典といった「木強者」がお好みであったらしい。木強者とは鹿児島の言葉で、「大胆な人」(広辞苑第六版)であるが、どうやら大迫尚敏や同じ章に出てくる白襷隊の中村覚隊長もその仲間であったらしく、天皇がお好きな男たちであった。二人は天皇に直接仕えるという機会にも恵まれた。

 山岡鉄舟については、別途いつか触れたい。彼のお墓もうちの近所にある。鉄舟山岡鉄太郎は幕臣であり、錦の御旗に弓を引いた側に属していたのだが、皇室に迎え入れたのはきっと西郷だろう。二人は私の生まれ育った静岡市(当時の駿府)で勝海舟無血開城談判よりも前に会っている。そこで肝胆相照らしたのだろうが、それにしても賊軍の人材を禁裏に引き入れるとは大した木強者である。


 大迫は前回で先述のように大佐時代、近衛歩兵第一連隊長を務めていたとある。皇室の首席ボディーガード。彼は幕末に育った侍であるから、近代軍事教育を受けていないし、まして宮中の伝統も知らない。明治帝は室町時代から伝わる大坪さんという御方が始めた大坪流馬術の名手で、「大迫、教えてやる」と自ら部下の乗馬の家庭教師になった。いい時代だなあ。

 その大迫の髭に白いものが混じるころ日露戦争が始まり、彼が師団長の大任を負う第七師団が旅順への追加投入として派遣されることになった。1902年に師団の所在地である旭川で日本観測史上、今も残る最低気温を記録した極寒の地で、大迫師団長は自分たちだけ留守番に甘んじているのに耐えきれず、何度も東京に行き、早く戦場に送れと陳情をし続けたらしい。


 帝の心痛は格段のものであったろう。大迫は政府関係者らへの暇乞いを済ませ、最後は宮中に伺い明治帝に出征報告をした。師団長級の拝謁は挨拶だけで終わる程度だったとのことだが、旅順に送られるだけで兵卒の士気が落ちるという話は皇居にも伝わっていたのだろう。帝はこの「薩摩じいさん」をお引き止めするが如く、「士卒の士気はどうか」と憂慮して訊いた。

 このときの明治天皇と大迫尚敏のやりとりは、多分、文中にその名が出てくる侍従武官長の岡沢精(くわし)さんというお方が書き残したか、あるいは詳しく語り継いだのだろう。感情がこもっているし臨場感にあふれている。司馬さんの解釈では、大迫師団長は陛下のご心労を和らげ申し上げるべく「薩摩弁丸出し」の大声で言上した。劈頭の「戦」は薩摩弁丸出しで「ゆっさ」と発音する。


 「戦に勝つ、勝ったあと、北海道の師団ばかり征かんじゃったとあれば、北海道ンもんは津軽海峡の方ば顔向けできん、ちゅうてどぎゃんにも焦っちょりましたるところ、ありがたくこのたび大命くだりもして...」

 大迫の気遣いは方言が醸し出すユーモアだけではない。ゆっさに勝った後がどぎゃんにも心配だという。この場において勝敗につき議論の余地なしと断言しちょるのであった。普段、伊藤や山形や権兵衛の深刻な顔ばかりご覧になっている帝にとっては、勇ましくも頼もしい出師の表であった。岡沢武官長によれば、「開戦以来、おかみがあれほど大声でお笑いになったことがない」という薩摩隼人らしい寸劇を演じて大迫は旅順に向かった。


 1904年の11月下旬は、旅順戦のターニング・ポイントと評してよかろう。守将ステッセル以下、要塞のロシア軍が「なぜノギは26日にばかり来るのか」と不審に思っていたとおり、11月26日、白襷隊が正面攻撃に挑んで第三次旅順総攻撃が始まる。この日の朝、北方で朝日を拝んで願をかけた児玉源太郎は、列車に乗って遼東半島を南下する。すでにレールが凍り、列車の車輪がときどき滑る季節になっていた。

 11月27日の未明、白襷隊の悲報を含め作戦失敗を繰り返していることが身に染みた乃木軍は、正面突破を断念して懸案の二〇三高地に攻撃の矛先を変えた。29日の朝、大迫率いる旭川第七師団が新たな攻撃目標の方面に布陣し、翌30日から翌12月1日にかけての夜には、線路上で怒り心頭に発した児玉が現地入りしつつある。小説はこの二人の言動を絡ませながら、終盤の激戦に向かっていく。


 合流したものの消耗が激しい第一師団と交代で、第七師団が主力になった。さっそく高崎山に登った大迫師団長たちは、すでに戦闘が始まっている二〇三高地を遠望した。このとき大迫のそばにいた一曹長が漏らした言葉が伝わっている。「これは地獄だ」。

 大迫師団長は「われわれがみな死ねば、なんとか奪れるだろう」という大方針を打ち立て、作戦会議を了してから座り、白い髭に黄砂をまぶして、あぐらをかいた。とだけ書くと何だか投げやりみたいだが、大迫さんは戦地に詳しい第一師団に、どれだけ大砲を撃ちこめば相手の砲を黙らすことができるかと問うている。研究の結果、四時間という結論が出た。


 二十九日から三十日にかけて第一師団と第七師団は二〇三高地に猛攻をしかけたが、その結果は皇軍の「惨状」であった。一時的に「占領」したものの取り返されてしまい、児玉を怒らせ多くの兵が死んだ戦いだった。到着したばかりの児玉は先ず乃木と会い、いまに至るもどんな会話が交わされたのか定かではない高崎山での密談の結果、どうやら実質的に指揮権を譲り受けたらしい。当日さっそく参謀会議を開催することになった。

 その会場に向かう児玉に、高崎山で陣取っていた第七師団から来た大迫尚敏が追い付いた。乗馬の鞍に提灯を結びつけていたというから夜中であり、誰かが見て記録したのだろう。大迫さんかと児玉が声をかけ、ああ、閣下でございましたかと師団長は応えた。続いて児玉が「北海道の兵は強いそうだな」と語ったとある。


 このときの大迫の返事は、「左様でございます。強うございます。」と流石は元近衛隊長、丁寧な言葉遣いである。一万五千の兵で乗り込んだ旅順だったが、わずか数日で千人に減っていたというから凄まじかった。司馬さんが「正確には、強かったと言うべきであろう」と書いているのは、兵数が十分の一以下に減じてしまったことによる師団の戦力低下を指している。

 だが、兵とは軍隊の意味もあるが、軍人も指す。この晩の怒号飛び交う作戦会議の席上で、突撃兵の背中越しに二十八サンチ榴弾砲を撃てと命じた児玉に対し、同士討ちになると反論した砲兵中佐に向かって児玉閣下は大砲並みに怒り、ついては「そこをうまくやれ」と分かりやすく指揮命令を下した。砲弾は第七師団の上空を飛び交うことになる。そして北海道の兵はやはり強かった。



(この稿おわり)




雪国の車窓より (2015日3月11日撮影)

 








































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