正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

小園の記  (第53回)

 子規のファンは、彼の文章が明るいと口をそろえて言う。もちろん「不治の病で苦しみながらも」という、言わずもがなのことを略してのことだが。確かに子規の随筆や日記は、ユーモアありリズム感あり、疼痛さえ興味の対象にしてしまう好奇心あり、よく食べるし人付き合いも好きだ。

 絵も上手い。図や表まで書き込んでいて、賑やかである。だが、彼の文章の最後は必ずしも軽快に終わってはいない。印象でいうと起承転結の「転」と「結」が逆順になったかのように、最後にくるっと違う方を向いてしまうようなときがある。この「小園の記」もそうだ。青空文庫にもあるが、筑摩書房の文庫本「正岡子規」には楽しい庭の図が載っている。


 書かれた年代から確認する。1898年10月の作品である。少し遡ると、まず1984年27歳のとき、正岡家は根岸の町内で数件隣りに引っ越した。したがって、この小さな庭の花園とは現在、復元された子規庵が建っているのと同じ場所の景色を描いたものだ。翌1985年に日清戦争に従軍して帰路、喀血。86年には歩行困難となり、翌87年に二度の手術を受けた。蕪村再発見の年でもある。

 この88年は病状が進み、その代り頭と心が冴え渡った。それまで松山で発行されていた「ホトトギス」を東京で創り始める。新聞「日本」に「歌よみに与うる書」の連載を開始、満天下に論争を挑む。子規は俳句・短歌の論文を「ホトトギス」に書くようになったので、段々と「日本」では、このような随筆やベースボールを話題にした記事を載せるようになった。

 反響の大きな仕事の成果が減ってしまい、社長に済まないと子規は気にするが、陸翁は給料を下げない。そのありがたさに涙をこぼしながら、子規は漱石に感謝の念をつづった手紙を書いている。文庫本第三巻の「子規庵」にあるエピソード。


 この小園は子規庵の南側に当時も今もある。上野の山が借景になっているかのようだ。越して来たばかりのころ、ほどんと何も植わっていない殺風景な庭だったと子規が書いているし、妹のお律も語り残している。しかし青空は庭の外にひろがり、「雲行き鳥跳る様もいとゆたか」であった。

 まず家主さんが見かねたのか、小さな松を植えてくれた。植林事業が始まる。隣家の老媼が薔薇の苗を植えてくれて、これが咲いた。従軍から戻ったときは白菊が迎えてくれた。外出もままならなくなり、いま「小園は余が天地にして、草花は唯一の詩料となりぬ」。隣の媼は萩も植えてくれた。椎の木が育ち、桔梗や撫子が咲き、蝶も舞うようになった。ホトトギスも鳴く。


 子規というひとは周囲が放っておけない魅力があるらしい。前年には清国で知り合った森鴎外が来て、草花の種をいろいろくれた。最初の年は百日草しか咲かなかった。くやしく思っていると、次の年に子規の好きな葉鶏頭も咲いた。お向えさんも鶏頭を四本くれた。物事は重なるもので、近所の中村不拙も葉鶏頭を一本ひっさげてきて手ずから植えて帰った。

 先ほど触れた図というのは、この庭の草木の配置図である。しかし、その種の名だけではなく、絵も庭の輪郭だけで、子規はどこに何が植わっているかを、いちいち和歌にして示している。名付けて「小園の図」とある。西隣は陸社長のご自宅だったと思うが、そこには「椎の実を拾いに来るや隣の子」という歌が書き込まれている。


 彼の文章の最後のあたりに独特の味わいがあると書いた。「小園の記」は、最後の「ごてごてと草花植ゑし小庭かな」という句で結ばれているが、その直前の一文を引用する。

 「薔薇、萩、芒、桔梗などをうちくれて余が小楽園の創造に力ありし老媼はその後移りて他にありしが今年秋風にさきだちてみまかりしと聞こえし」。老媼も子規も、夏から秋にかけて盛りを迎える花々がお好きだったようだ。



(この稿おわり)



この一輪も今はもう、みまかりぬ
(2015年3月21日撮影)




 たったひとつ咲いたバラ 小さなバラで
 さみしかった僕の庭が 明るくなった

        バラが咲いた − マイク眞木










































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