正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

一番焼香  (第55回)

 前回の寺田屋で片足を斬られながら、もう一方の脚だけで戦って倒れた橋口伝蔵には覚之進という弟がいた。覚之進は三男だったからか、樺山家に養子縁組に出された。のち資紀と名乗る。読み方は「しき」ではなくて「すけのり」。

 いまから数年前に彼の孫娘、正子が嫁いだ相手の白洲次郎がなぜかブームになったので、樺山資紀の名や次のエピソードも知られるようになっただろうと思う。兄弟そろって薩摩示現流の使い手であった。


 橋口覚之進が二十代のころに起こした或るとんでもない出来事については、津本陽「薩南示現流」から引こう。津本さんは自らが剣術家とあって、剣劇の場面の臨場感が尋常ではないし、この小説を書くにあたり現地で取材もしている迫真の剣豪物語である。

 元来「じげんりゅう」は「自顕流」と書いたらしい。それが示現流という今の漢字遣いに改められた経緯は、この小説に詳しいが長いので割愛する。本家本元は常陸の国の侍が編み出した剣法であったらしい。


 平氏というと関西や瀬戸内海のイメージがあるが、実際は関東平野にも平氏帰化人が多く住み付いている。かつて私は源平について調べ事をしたことがあり、例えば千葉氏、渋谷氏など今も残る地名に由来する平氏の一族があった。

 もっとも、この渋谷は東京23区の渋谷ではなく、相模国高座郡渋谷という荘園で、今も小田急線に高座渋谷という駅がある。神奈川県の真ん中あたり。縁あってこの地頭の一族が薩摩に土地をもらって移住し、その子孫の一人が東郷という土地に定着して、その地名を氏とした。


 豊臣秀吉のころの天文年間に、東郷重位(ちょうい)というお方が出て、この一子相伝の剣術の極意を得た。薩摩示現流も元はといえば輸入品だったらしい。

 この一族と、東郷平八郎司令長官に血縁があるかどうか知らない。あればもっと記録が豊富に残っていそうなものだが。本来、土地の名だったのだから、お互い先祖が同郷という可能性は充分ありそうだな。


 幕末、若き橋口覚之進の朋友に指宿藤次郎という如何にも鹿児島らしい名字の人がおった。この指宿さんが、前田某という者に誘われて京の街を歩いていた時、運悪く見廻組の八名に見つかり包囲され、斬り合いとなった。見廻組は右翼のテロ組織で、祇園あたりのゲシュタポのような連中であった。

 二人対八人。凶暴な敵が四倍。三十六計、逃げるにしかずと私のような軟弱者は考えるのだが、薩摩ではここで敵方に背を見せるのは罪、万死に値するものだったらしい。


 前田某は逃げた。指宿が斬り死にすれば発覚しまいと思ったか。そう考える余裕すらなかったかもしれない。前田にとっての不幸は、この一部始終を近くにいた下駄屋が、逃げ隠れながら敵前逃亡と孤軍奮闘の様子を見ていたことだった。これが遺体を引き取りに来た薩摩藩士たちに伝わった。
 
 このとき指宿は五人まで斬ったというから凄い。吉良邸に討ち入りしたとき赤穂浪士の中で一番、多く相手を倒したのが堀部安兵衛で、その堀部でも三人ぐらいだったという話を聞いたことがある。そもそも日本刀は人を斬ると脂が付いてしまい、チャンバラ映画みたいにバサバサ斬り倒せないらしい。
 
 指宿にとっての不幸は、またも下駄関係で、彼の下駄の鼻緒が切れた。足元が定まらないようでは万事休すであった。示現流の極意には、胸で呼吸せず踵で呼吸せよというのがあるそうだ。覚之進は寺田屋に続いて、このときも幸か不幸か現場にいなかった。もしも居たなら、どちらかで命を落としていたかもしれない。ともあれ兄のときは悲嘆にくれただろうが、今回は怒り心頭に発した。


 私は京都の大学で4年間を過ごしているので、この決闘があった祇園石段下も薩摩藩邸がある錦小路も、幾度となくバイクや徒歩で通り過ぎたところだ。その京の藩邸に収容された指宿の遺体が運び込まれ、葬儀が始まった。前田某も覚悟の上だろう、参列したところ覚之進が声をかけて来た。「おはんが一番焼香じゃ。先い拝め。」

 元より前田某は、この葬儀に悲壮な覚悟で臨んだに違いなか。彼は焼香をしただけではなく、棺の前でうなだれた。覚之進たちは棺の蓋を覆っておらず、指宿の顔が見える。橋口覚之進は「腰刀を鞘走らせ、眼前の前田の首をぬきうちにうちおとした。首は見事に斬り放されて、棺の中に落ちた。」とある。


 切腹介錯はそれなりの腕と度胸がないと失敗することがあり、確か赤穂浪士の誰かの切腹でも、介錯人がしくじって後頭部に刀が跳ね返され、腹を切った男に落ち着けと説教されて、やり直している。覚之進はそういう定型的な刑執行の場面でもないのに、一撃で討ち果たすとは示現流おそるべしである。

 彼は「こいでよか、蓋をせい」と人夫に命じた。この話を自著で引用している白洲正子は、ここからが本当の葬式だったのではないだろうかと書いている。このエピソードの不気味さは、これだけしか伝わっていないようで、前田の首が本体から離れて以降の様子が分からないのだ。


 ともあれ、現代の刑法では自己防衛も緊急避難も成立せず間違いなく殺人罪だろうが、覚之進は大正時代まで長命し、それだけでなく陸海軍の要職を歴任しているのだから、薩摩においては正しいことをしたと認知されたのだろう。究極のポリティカリー・コレクトである。斬首すると血が二斗ほど吹き出すらしいと津本さんは書いている。指宿の葬式は血の海の中で執り行された。

 覚之進あらため樺山資紀の名は、小欄でも既に大迫さんの記事で触れた。西南の役で熊本城に籠城した男たちの一人である。その詳細に移る前に、孫娘から見た祖父の思い出話を拾いたい。



(この稿おわり)






たまには変な写真を。この季節になると太陽の位置の関係で、昼ごろまで居間の天井にメダカを飼っている睡蓮鉢の反射光が揺れながら映る。
(2015年3月30日撮影)






 










































.