正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

鴫立沢の別荘  (第56回)

 以下の殆どは、新潮文庫白洲正子自伝」から引用・転載したものです。彼女の父方の祖父は、前回ご紹介した橋口覚之進あらため樺山資紀津本陽「薩南示現流」の葬式場面も、この自伝に引用されている。母方の祖父は、こちらも同じく薩摩出身の川村純義。

 自伝にはもう一つ、同書からの転載で、大正時代の写真に写っている「肥大漢」の樺山の容貌と印象について、津本さんがこういうふうに感想を述べておられる。「その顔面神経が鈍麻したかのような、東洋豪傑風の面がまえに、私は感じ入った。目付きの暗鬱なきびしさは、他の男たちとは異質なものであった。」


 褒め言葉なのかどうか、ぎりぎり際どいところだが、孫娘は気に入ったらしい。他方、母方の祖父、川村は俊敏な感じの颯爽とした様子の写真が載っている。西南の役のとき川村は勝海舟の後継者的存在として海軍の指令長であり、陸軍の山県とともに、当時そういう名称はなかったそうだが「大本営」の陸海のトップであった。樺山は前にも書いたように熊本鎮台の参謀長を務めている。

 司馬遼太郎は「跳ぶが如く」の中で、西南戦争のころの海軍はまだ近代海軍と呼べるような規模のものではなかった旨のことを書いている。他方で陸軍の顔ぶれは凄い。大山が少将、川上と児玉がいて、野津・黒木・乃木・奥の四軍司令官も、立見も大迫も青年将校として参戦している。なお、東郷さんはイギリス留学中で、真之はまだ子供。


 自伝によれば晩年の樺山は、神奈川の大磯にある別荘で孫娘らと暮らしていたらしい。その別荘は鴫立沢の前にあった由。戦場の彼を描いた錦絵がたくさん壁にかかっていたそうで、「その時樺山少しも騒がず」などと書いてある。「ほんとに怖くなかったの?」と正子ちゃんが訊くと、「そりゃ、怖かったサ。飛んで逃げた。」と笑っていたそうだ。

 実際の樺山は「跳ぶが如く」の文庫本第八巻「雷発」という剛毅な名の章に何度か出てくる。熊本城の攻防において最前線に立ち(参謀長なのですが...)、胸に傷を負っている。後方に担ぎ出されたとあるから軽傷ではないだろう。この猪突猛進振り日清戦争でも発揮されるが、次回のお楽しみに取っておく。


 孫娘の記憶では、祖父は「まったく一介の田夫野人としか見えぬ姿」であり、「着古したセルのきものに、太い兵児帯を無造作に巻きつけた平凡な老人」であった。彼が慕った西郷さんの像とそっくりだ。厳しくもなく、特に可愛がってもらった覚えもないという、私の祖父二人とそっくりな印象だが、どうみても正子嬢はお爺ちゃん子である。

 私事を差し挟むが、誰より好きだった父方の祖父が亡くなったとき、八歳だった私は余りに突然のことに呆然とし、自宅の通夜でも、お寺の告別式でも、最後の火葬場でも、涙一つこぼなさかった。子供心にも、ここで泣かないと冷たい子と思われるだろうかと悩んだのを覚えているが、嘘泣きなどできる場面でも年齢でもない。

 樺山翁は脳溢血で倒れ人事不省に陥ったが、なぜか突然、回復してもう少し長生きしたのち、八十五歳で大往生した。十二歳だった白洲正子が初めて人の死に立ち合い、「何か崇高な感じが先に立って、泣くに泣けない心地がした」と書いているのを読んで、少し気持ちが楽になったのを覚えている。


 二つほど、この自伝から樺山の逸話を引く。彼女の祖父は問わず語りに、このようなことを言う時もあったと正子さんは書く。「我々は維新の元勲だとか何とか世間で言っているが、ほんとうに偉い人たちはみな早くに死んでしまった。残ったのはカスばかりだ」。寺田屋、蛤御門、戊辰戦争、上野の彰義隊西南の役、暗殺の嵐、日清日露の両戦役。

 もう一つのエピソードは、のどかな日常風景だ。彼は毎朝、海岸へ口を洗いに行く。孫娘はちょこちょこと、その後からついていく。祖父は「太平洋の水でうがいしよると気持ちよか。あの向こうにはアメリカ大陸があっとよ。」とはるかかなたの空を眺めている。それから近所の漁師たちに魚を分けてもらって帰り、朝食に頂く。しかし彼もかつては反対側の日本海海上で、国運を賭して戦った軍人であった。




(この稿おわり)




今年も咲いた鶯谷駅前 (2015年4月15日撮影)






 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ  −  西行法師
















































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