正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

豊島沖  (第58回)

 印象として、日本国が明治維新西南の役を経由しつつ富国強兵の看板を掲げ、ひとり気勢を上げていたころ、近隣の諸国は不調であったらしい。ロシア帝国は「坂の上の雲」の時代から、そう遠くない将来に悲惨な末路を辿る。清国も同様に老朽しており、しかも朝鮮半島まで大混乱であった。

 中学校の歴史の授業にも出て来たが、東学党の乱が起きている。齢五百年の李氏朝鮮王朝は独力でこれを鎮圧できず、清国に治安維持のための軍事支援を内々に求めたのが1894年の6月1日。

 日本は敏感にこの動きを察知し、押しかけ女房のごとく自国内で朝鮮出兵閣議決定した。それも手回しがよくて、早くも翌6月2日の閣議であった。何だか現代の東アジアの混乱や日本の国内事情と共通する部分があるかのような気がする。


 派遣の名目は同国内にいる日本人の保護であったが、大人数を送り込んで朝鮮国と清国を驚かせたとある。陸軍の「混成旅団」の先発隊は、閣議決定からわずか10日後の6月12日に仁川に上陸している。この混成旅団の長は、文庫本第六巻の「国溝台」にも出てくる大島義昌第三師団長(日露戦争当時)である。

 大島さんは同じ中将ながら先任の自分が、臨時立見軍を率いる立見尚文の軍に属せよという参謀本部の命令に怒り、それでは軍隊の秩序が乱れると反対して、結局、最後まで奥軍を離れなかった。平和時の大原則をここでも守るのか、それとも緊急事態に階級や年功序列を優先すべきなのか、当時の陸軍内でも意見が割れ、さすがの司馬さんも明確な判断結果を示していない。


 同時に李氏朝鮮には外交でも圧力をかけた。大鳥圭介といえば最後まで幕府軍にいて薩長らの「官軍」と函館で戦ったお人だが、このときは明治政府に仕えており、漢城(今のソウル)の公使であった。押しの強い人だったようで、散々プレッシャーをかけ、とうとう清国軍を追い払ってくれという公文書を朝鮮政府から出させたのが7月25日。陸軍が動いた。

 その二日前の7月23日に、一方の海軍も佐世保から史上初の連合艦隊が出動している。司令長官の伊東祐享は旗艦松島に乗船した。「松島」は当時の最新鋭艦だったそうだが、日露戦争では時の流れが速くて脇役になっている。この日、例の樺山資紀軍令部長は、連合艦隊のお見送りに来た。当時の大本営は東京にあり、間もなく広島に引っ越すのだが、樺山部長は佐世保に出張した模様である。


 この臨時応援団長ともいうべき本来の作戦責任者が、第一弾として出航した三隻の軍艦に信号でエールを送った様子が文庫本第二巻の「日清戦争」に、やや詳しめに記録されている。三隻とは第一遊撃隊の「吉野」、「秋津洲」、「浪速」という優雅な地名のついた船団で、佐世保港外に浮かんだ商船の高砂丸(郵船のお船)に乗った樺山さんから「帝国海軍ノ名誉ヲアゲヨ」とはっぱをかけられ、「吉野」も「全クスル」と付き合った。

 続いて出発した旗艦松島にも応援信号を送り、最後に出かけた輸送護衛船の愛宕まで見送った。愛宕は「懸念スルニ及ばず」という洒落た返答をしてきたらしい。戦う船でもないのに、心配するなと言われてしまった。心配だったかどうかはともかく、樺山軍令部長は応援団だけでは気が済まなかった。戦場まで行ってしまったのである。だがもう少し先の話。


 対清国の宣戦布告は8月1日であったが、先述の第一遊撃隊はその前の7月25日、朝鮮半島西岸を遊弋中にばったりと清国の海軍および輸送船に出っくわしてしまった。この近代海軍の初戦場の名が豊島沖である。恥ずかしながら、私はずっと「としまおき」と読んでいた。東京にいると、ついそうなる。私だけかな。小説文中では「ほうとう」とルビが振ってある。

 かつて韓国と日本は、原則としてお互いの地名や人名などの漢字を、自国の読み方で呼称していた(ソウルやプサンのような例外もあったが)。それを外交の取り決めで、お互いの国民の発音通りに変えた。

 例えば、私が中学生のときに起きた誘拐事件の被害者は、金大中と書いて「きんだいちゅう」だったのだが、のちに大統領になったときは「キム・デジュン」さんに変わっていた。彼が日本国内から拉致されたときの大統領の娘さんが、今の大統領です。


 この「豊島」はいま何と読むのだろうな。先日、若い女性と済州島のことを話題にしてお喋りしていたとき、私が「さいしゅうとう」と言ったところ、手厳しく「チェジュド」ですと叱られてしまった。

 本気で怒っていたが、韓流のファンなのか、あるいは拙宅のある区には明治時代にこの島から大勢が移民してきたと複数のご近所さんに訊いたことがあるので、その御子孫かもしれぬ。なお、文庫本第七巻「艦影」に出てくる済州島にも、「さいしゅうとう」というフリガナが振ってある。


 宣戦布告前だから日本側は礼法を準備したと「坂の上の雲」にはある。しかし、お相手は舞い上がってしまったのだろうか、実弾を発砲してきたため戦闘状態に入れり。先方の二隻のうち一隻は降伏し、もう一隻は逃げた。

 これを「浪速」が追いかけているうちに、偶然、別の船を見つけてしまうことになる。イギリス国旗を掲げた大型輸送船であった。「浪速」の館長は東郷平八郎。厄介なことになった。





(この稿おわり)






今回も近所のバラです。正岡子規もこの花が好きで俳句をいくつか残している。
(2015年5月13日撮影)








 フランスの一輪ざしや冬の薔薇   子規




































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