正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

万国公法  (第59回)

 小説「竜馬が行く」のあとがきに、日露戦争の話題が出てくる。「皇后の奇夢」という記事が都下のすべての新聞に載るという一大事が起きた。ロシア帝国との国交が断絶した1904年2月6日、連合艦隊佐世保を出航したその夜、葉山の御用邸にて避寒中の皇后陛下の夢枕に白装束の奇人が立った。

 その男は「坂本龍馬」と名乗り、開戦に胸を痛めていたという皇后に、この戦争は勝つから大丈夫と太鼓判を押して掻き消えた。皇后におかれては、その予言者の顔にも名にも覚えがない。不審に思っていると次の日も、また夢に出てきた。現代用語ではストーカーというか。

 さぞかしむさくるしい夢だったろうが、再びご安心をと存外やさしいのであった。周囲の者が坂本龍馬の写真を見せたところ(彼は新しもの好きで写真がたくさん残っている)、この人で間違いないとの仰せであった。


 当時の宮中では、今でいう宮内庁の高官が土佐藩出身者で固められており、やれ政治だ戦争だという美味しそうなところは薩長の天下になっているため、司馬さんも土佐系が一矢報いたのかもしれないと、疑おうと思えば疑えなくもないと書いている。

 開かれた皇族がキャッチ・フレーズの今と違って、記者会見をひらき皇后に確認できるという時代ではあるまい。去年だったか、くまモンとやらが皇后陛下に性別を訊かれて往生したというニュースをみた。とりあえず天下泰平であるらしい。この夢物語は「坂の上の雲」にもちょこっと出てくる。


 それにしてもなぜ坂本龍馬なのか。彼が新政府の高官を推挙すべく一覧表を西郷隆盛に提出したとき、土佐藩出身者は後藤象二郎ひとりで、本人は「世界の海援隊をやる」と語り西郷さんを驚かせ、日清戦争時に外務大臣を務めることになる手下の陸奥宗光を喜ばせた。

 もう30年ぐらい前になるが、テレビ番組を観ていたら高知在住のおばあちゃんが、司馬さんがあの小説を書くまでは、郷土の英雄といえば板垣さんだったのにと言っていたのを覚えている。私もその時にそう思った。日本国に百円札というものがあり、その肖像画板垣退助であったことを知る最後の世代が私たちだろう。


 あえていえば、海軍つながりというところか。船が好きなお人であった。子供向けの歴史の本では、坂本龍馬とくれば判で押したように、刀を持っている武士にピストルを見せ、これからはこの時代だと威張り、次にその侍がピストルを見せたところ、最早この時代になったと「万国公法」の本を見せたという先見の明と自慢体質の男というエピソードの持ち主であった。

 海援隊が伊予の大洲藩に金を出させて初めて買った西洋式の汽船は、いろは丸と名付けられたが最初の航海で瀬戸内海に沈んだ。衝突した相手が陸奥の故郷、紀州御三家ご自慢の大型船舶だったから話がややこしくなったが、龍馬は得意の万国公法と作詞作曲の才能で損害賠償金を得ている。万国公法とは現在の国際法と同義だろうが、私にはどうみても国内の交通事故としか思えないのだが。


 前置きが長い。東郷平八郎さんは鉄道技師を志した。いい仕事である。まずはこの若き国の大地に、近代国家の礎を築かんとした。官費留学の相談のため、大久保利通を訪ねたという話も、「跳ぶが如く」や「坂の上の雲」に出てくる。大久保どんは、「東郷は口が軽いから駄目だ」と言ったらしい。大久保のような国家機密の中枢にいる人間がお喋りでは困るが、技師にとって致命的だろうかなあ。

 これはやはり薩摩の人でないと分からない価値観によるものだろう。そこで困ったときの西郷さんに会う。「よか」という趣旨のことを言ってくれて、めでたくイギリス留学が決まったが、どこで道が逸れたのか、鉄道屋さんではなく海軍の勉強になってしまった。まだ明治四年のことで、少なくとも対外戦に急ぎ備えなければいけない時期とも思えないのだが、そもそも攘夷に始まった革命だもんね。とにかくこれで彼と日本の運命が変わった。


 東郷さんは約7年間、イギリスに留学した。これまた長い。「坂の上の雲」の登場人物たちは、多くが複数の国に留学したり武官として駐在したりと、二三年の単位でころころ人事異動しているのだが、それと比べて非常に長い。しかも、なぜかイギリスは海軍の学校への入学を許さず、商船学校で学ぶことになった。

 その理由が私の調べ方の下手なせいか、良く分からない。イギリスが機密漏えいを嫌ったという説があるが、反論もないけれど、この当時に軍隊を持っている国々は、お互いの手の内をある程度見せ合うことにより、時代遅れにならないよう人的交流に熱心であったはずなのだが。年齢がいきすぎていたという説もある。彼の留学はおおむね二十代の後半。確かに当時ではもう若者とも呼べまい。


 この間、東郷さんが何を勉強していたが良く知らないが、数年前にその商船学校のドキュメンタリー番組をテレビで観た。建物が残っているばかりか、東郷さんもサインしている帳簿のようなものも出て来た。さすが大英帝国、百年以上も前の帳面まで保管しているとは物持ちの良いことだ。

 場所はポーツマスの近郊。後年、小村寿太郎とウィッテが火花を散らした講和条約交渉の地ではなくイギリス南部の港町で、アメリ東海岸の同じ地名はこのマネッコである。ネルソン提督もここから出陣した。栄誉ある土地柄だが、商船学校は商船学校である。東郷さんは艦隊の統率や艦砲の操作を勉強することはできなかっただろう。


 無事、帰国したときは国際法の権威になっていた。競争相手がいないもんね。それに当時の海事における国際法は、何といってもイギリス中心に出来上がっていただろうから本場仕込である。商船学校でも国際法は学べただろう。学ばないと困る。船舶の運航に共通のルールを知っていないと、大事故につながりかねない。

 特に商船は、万一、軍艦と衝突したらどんなに悲惨な目に遭うか。何年かに一度、日本でも漁船と海自が衝突や接触をし、装甲も弱く圧倒的に小さい民間の船が沈んで犠牲者が出る。どちらもたいへん気の毒な事故が起きてしまう。そのことは、いろは丸がすでに実証済みであり、遅まきながらも龍馬が万国公法を持ち出したのは弱者の知恵というものだろう。


 戊辰戦争の昔から海で戦ってきた東郷さんである。薩摩で、阿波沖で、宮古湾で、函館で。留学中に彼の二人の兄は、西南の役薩軍に参じて死傷した。確かにこう見ると運が良いお人であり、時代がお味方になってくれたら強い。日清戦争が始まらんとするとき、先んじて海に浮かんだ東郷さんは、ちょうど艦長クラスになる大佐の身分にあり、巡洋艦「浪速」の艦長になった。

 清国はソウルの外港(司馬さんの表現によると、東京にとっての横浜港のような存在)である仁川に、陸軍兵を送ろうとしているところだった。清国陸軍の将兵を満載したイギリス船籍の「高陞号」も、この目的で仁川に向かう途中であった。ちなみに、日露戦争のときも仁川は戦乱に巻き込まれている。


 ここから先は小説をそのまま読んでいただけばいいのだが、一つ強調すれば東郷艦長はいきなり発砲したのではない。小説では交渉に二時間半かけたと書いてあるし、もっと長かったという資料もある。

 沈没後に一旦、激高したというイギリスの世論が収まった背景には、国際法が何より大きかったことに異論はないが、こういう経緯も明らかになってのことに違いないと思う。


 さらに、もっと大きかったのは東郷艦長が、イギリス人の乗組員を全員、救出したという点にあるはずだ。一人でも水死していたら、イギリスの庶民がそう簡単に黙るはずがない。相手の身になってみればわかる。時代も国も違いますけれども...。

 損をしたのは船主だが、多分ロイズの保険に入っていただろう。保険金が下りたかどうか知らないが。少なくとも倒産はせず今も健在で、私も昼飯をここで食べたことがあるが、マンダリン・オリエンタル・バンコクというホテルなどを経営している。儲かりますね、戦争は。


 これが日清戦争という近代日本初の外国相手の戦争における最初の砲撃であったという。そして、十年後の日露戦争後に戊辰生き残りの将軍たちが殆ど第一線を退いていることからして、日露戦争のほうは広い意味で、職業軍人と知識階級を兼ねていた江戸期の武士が戦った最後の戦争と言って差し支えあるまい。東郷さんはその最後の場にも立ち会っている。

 殊勲の巡洋艦「浪速」は、日露戦争のときも元気で第二艦隊第四戦隊の旗艦であった。開戦時、主力は旅順港を目指したが、この戦隊のみは在留邦人保護のため別働し、因縁の仁川に向かっている。参謀はがらっぱちの森山さんであった。この話はいずれまた別の機会に取り上げようと思う。





(この稿おわり)





宮古の海  (2014年5月 上は10日 下は11日に撮影)






































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