正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

鏡のごとき黄海は  (第60回)

 宣戦布告の前に戦闘行為をしても国際法違反にはならないのだろうか。今はどうか知らないが、日清戦争のとき陸軍は朝鮮半島で、海軍は豊島沖で既に清国と戦い、幸先よく緒戦を制している。英国世論は東郷艦長が国際法を順守したとの理由で沈静したという。外交も通常の国交状態からいきなり宣戦布告というわけではないだろうから、プロセスが重要なのだろう。多分。

 勢いがついた。陸海のお手合わせから数日後の8月1日に宣戦布告。海軍は最初のうち陸軍の輸送に専念したとある。海軍大臣西郷従道さん。開戦前に軍令部長だった中牟田部長というお方に、日清戦争の前年、清国の海軍と戦って勝てるかと諮問したところ、「ばかな」という、けんもほろろのお返事だったらしい。海軍は部長を更迭し、後任が樺山新部長である。海外の意見も割れている情勢にあって戦争を迎えた。


 文庫本第二巻の「日清戦争」によると、「開戦とともに樺山は、軍令部長の身ながら海上に従軍した。」とある。むう、野球でいえばヘッド・コーチがスタメンで出場するようなものなのだろうか。樺山さんは伊東長官の「相談役」ということで海路同行し、しかし「軍艦にのせるわけにもいかないから」と書いてあるので、やはり尋常の沙汰ではないらしい。

 そこで部長は仮装巡洋艦に乗った。仮装だから本来は軍艦ではなく、臨時に商船がお化粧したものである。どうやら商船は信濃丸もそうだったが、船名に「丸」をつけるものらしく、樺山部長に乗られてしまった商船は「西京丸」という日本郵船の船舶で、海外の航路で働いていたらしく、ネットで写真を見ても結構、大きい感じがする。


 とはいえ装備は軍艦のそれではない。鎧兜無しで戦場に出るようなものだろうな。孫娘の白洲正子が聞いた話では、船底が浅いため敵の魚雷が命中せず、みんな船の下をすり抜けたため無事だったということだ。海外諸国の観戦者は、「西京丸ほど大胆な船は無い」と感嘆したと「坂の上の雲」にある。船というより、その臨時船長の胆力の賜物だろう。

 しかも、樺山さんが正子嬢と暮らした大磯の別荘には、彼女の自伝によると「西京丸を敵艦に横付けし、軍令部長が斬込隊の先導に立ち、日本刀を抜いて獅子奮迅の勢で当るを幸い薙ぎ倒している風景」が描かれていたらしい。まるで池田屋近藤勇みたいである。そうでもしなければ勝てなかったというのが孫の解釈であるが、連合艦隊の作戦立案はどこへいったのだろう。


 このときの海戦は、1984年9月16日に北朝鮮を発進した十隻の軍艦からなる連合艦隊の本格的デビュー戦となった。伊東長官は戦闘能力の劣る船を削り、少数精鋭で臨んだため「弱艦」の「筑紫」乗り組みだった秋山真之は船ごと選に漏れ、この戦場に立てなかった。でも正確には十二隻の組成であり、西京丸がついてまわっている。連絡係の砲艦赤城も同行。佐藤鉄太郎が載っていた。

 まず艦隊は海洋島という島を目指した。日露戦争史にもその名が出てくる鴨緑江の河口付近にあるらしい。朝鮮半島の付け根の西端側にある。ここに9月17日の明け方前に着いた。まだ敵艦が見えないため、ここで教練をしたとある。もういつ決戦が始まってもおかしくない段階で、まだまだ練習であった。夜が明けて雨がやみ、進路を北東に据えて出陣。


 この日の黄海海上は、「風はまったく死んで」おり、絶好の好天で「海上のうねりはほとんどない」というから、漁師さん達の云うベタ凪の状態であったらしい。司馬遼太郎も本人いわく短い期間とはいえ軍人の経験があるから、「坂の上の雲」にもときどき軍歌が出てくる。この場面では「鏡のごとき黄海は」という歌詞の一節が登場する。

 もう30年ぐらい前にカラオケが急速に普及したころ、職場の上司先輩とカラオケに行くと、たいてい最後は一同起立のうえ肩を組んで軍歌の合唱で終わった。私が知っている軍歌といえば、パチンコ屋の「軍艦行進曲」、ドリフターズの「月月火水木金金」、あとは「同期の桜」と「戦友」ぐらいしかない。この締め方は苦痛であった。一度、無視して座っていたら支店長に頭をひっぱたかれたことがある。

 
 今なら立派なパワー・ハラスメントだろうが、当時は私自身も自分の態度が悪いことを弁えていたし、それにネチネチ叱られるよりは、ハリセン一撃で終わったほうが当方も楽である。ともあれ、「鏡のごとき黄海は」という歌詞は、軍歌「勇敢な水兵」の一番にある。作詞は佐佐木信綱さん。戦国武将みたいなお名前であるが、佳曲「夏は来ぬ」の詞も彼の作品である。幸田露伴らと共に、第一回の文化勲章を受章している。

 日本側の先陣は、例の第一遊撃隊の旗艦「吉野」であった。午前十時二十三分、海上遠く、黒煙の上がるのを見た。日露戦争時はあれほど敵艦隊を探すのに苦労した連合艦隊であったが、日清戦争ではいきなり敵の主力と真正面から接近遭遇した。こちらは戦うつもりであったから準備万端であったが、相手は驚いたろう。清国の艦隊司令長官は丁汝昌提督。居合い抜きのような接近戦が始まった。





(この稿おわり)





谷中の墓地にある天王寺の五重の塔跡。いま礎石しか残っていないのは昭和に入って不審火で全焼したためで、幸田露伴の「五重塔」はこの塔の建築を題材にしている。佐佐木信綱のお墓も、幸田露伴の旧宅跡も、この場から歩いてすぐの距離にあります。
(2015年5月13日撮影)













































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