正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

時雨傘  (第63回)

 こちらのブログは、近ごろ筆が鈍っている。その責任は内閣総理大臣にある。世の中が一気にキナ臭くなった。私は国防も自衛隊も大切に思うが、この状況下で延々と戦争場面の感想文ばかり書いていると、これでも客商売だから、あらぬ風評被害に遭っては困る。私はZ旗を振り回す気はないし、赤旗を振りまわすつもりもない。そんな訳で今回は主人公たちから離れる。

 落語家の三遊亭圓朝については、いずれまた紙面(画面?)を割いて書きたいと思うが、今日はその前触れのようなものです。円朝の名は、文庫本第二巻の「日清戦争」に出てくる。この箇所の主たる登場人物は小村寿太郎で、彼が外務省の翻訳局長という幹部職であったとき、外務大臣大隈重信が自宅で晩餐会を開いたときのエピソードが紹介されている。

 
 座興には円朝が呼ばれていた。枢密院議長の伊藤博文円朝に盃をやろうとしたが、円朝は身分を気にして末座に控えたままだった。小村いはく、元老も大臣も死ねば偉い後継者がいるが、円朝にはおるまい、堂々と前に出ろと煽っている。明治十三年とあるから、西暦では1880年円朝は徳川から明治にかけての落語家で、新作落語を次々発表し、鳴り物入りも演れば上方にも参ずるといった活躍ぶりで、子規と似た側面も持つ革新者であった。

 ただし、小説の文中にあるように、当時の落語家や歌舞伎役者の社会的な身分は余り高くなかったらしい。今や人間国宝を輩出しているが、これは文明開化の物まねの一環で、西洋のルネッサンスやゴシックやシンフォニーやバレエと張り合うような伝統工芸を日本も準備しなければならなかった故だろう。しかし、最初に西洋人が目を見張ったのは、江戸の絵葉書やブロマイドに当たる浮世絵だった。異国の言語文化は伝わりにくい。


 さて、円朝といえば人情噺と怪談噺が名高い。今日はその人情噺の系列に入ると思うのだが、心中物の話題である。「心中時雨傘」という作品で、全集に速記録が残っていると「街道をゆく」の中で司馬遼太郎も書いている。円朝自身、西洋伝来の速記技術には興味を抱いていたらしい。

 司馬さんは子規や漱石、蘆花らが現代日本語の文体の基礎を作ったと評価しているが、その先駆けというべき言文一致の文藝運動を展開した二葉亭四迷は、自身の文章において円朝の速記録を手本としたと書き残している。子規の散文が、病床の口述であったことと似ている。運動するまでもなく、否応なしに言文一致であった。


 NHKドラマ「坂の上の雲」において、木本の真之と菅野の律が立ち話をする場面があるが、ロケ地は根津神社の境内である。拙宅から頑張れば歩いて行けます。春のツツジの季節が絶景であるが、9月の例祭も徳川時代から名高く、この時期に根津や千駄木を歩くと至る所に根津神社のお札が貼ってあるのを見ることができる。

 主人公のお初は母親と二人暮らしで、縁日に屋台を出す商人であった。根津神社のお祭りのあとの帰り道、やくざ者に襲われかけたところを通りがかりの金三郎に助けられたのがきっかけで、経緯は省くが夫婦になった。

 しかし金三郎は浅草「酉の市」の日、火事を出してしまったお初の家から母を救い出そうとして大けがをし、働けない体になってしまう。彼はお初に迷惑をかけ続けるのに耐えきれず、毒薬を買い求めるが気付かれてしまう。ここから江戸っ子娘、お初の面目躍如たるところだ。さっさと一緒に死ぬなら死のうという展開で、心中という湿っぽい出来事が、日常の家事のように進められていく。


 一説によれば、この物語は本当にあった心中事件を題材にしているという。落語の舞台は、小欄で一戸兵衛の忠魂碑を紹介申し上げた日暮里の諏方神社である。今もある花見寺も出てくる。二人が服薬に使う水も、諏方神社の御手洗(みたらい)だ。

 子供のころ近所だったか御手洗さんという人がいて、なぜトイレが名字なのか不思議に思ったが、とんでもない間違いであり神社の手水のことです。本来は口や手の不浄を清めるためのお水であるからして、柄杓でごくごく飲んではいけないのだ。


 なお、五代目の古今亭志ん生が語り残した「心中時雨傘」が有難いことに録音で残っている。志ん生師匠は私が子供のころ、息子の志ん朝にちょうど代替わりをする時期であった。志ん朝の死は余りに早すぎた。

 他の落語家が舞台の袖で、志ん朝師匠の噺をじっと聞きながら勉強していたというほどだった。その話しを聞いたときの志ん朝さんの照れくさそうな顔を今でも覚えている。志ん生の孫娘が近所に住んでいます。旦那は先述のドラマで、日高壮之丞を熱演しておりました。


 漱石と子規が仲良くなった発端が、お互い寄席好きだったということは良く知られており、「坂の上の雲」にも出てくる。彼らの学生当時、もう当時としては高齢だった円朝は、しかしまだなお現役の落語家であった。彼らが円朝をみたという話は聞いたことがないが、円朝なくして彼らの行動範囲である本郷や上野の寄席の繁盛はあり得なかったろう。

 樋口一葉が「たけくらべ」を発表し、驚嘆した子規が随筆「松蘿玉液」に「一葉何者ぞ」と書いたのは明治二十九年(1896年)、一葉が子規と同じ業病で他界した年である。彼女が円朝を知っていたかどうかは分からない。「たけくらべ」は初っ端から「情死」「酉の市」などという言葉が出てくるが、これは小説の舞台が舞台だから偶然だろう。もっとも髪結いの子の名前が「文」になっているのは興味深い。


 むしろ円朝が、近松の「曽根崎心中」を意識していたかどうかのほうが面白い。同じ心中物だからというだけではない。主人公の名前が、同じ「お初」なのである。落語の主人公はほとんど男なのだから、いくら普通の名前だとしても偶然にしては出来過ぎの観あり。

 また、お初と金三郎の命日は、近松忌の前日にあたる。時雨ふる晩秋十一月の下旬であった。お初は商いをやっているから、字が書ける。平仮名だったろうが、雨で消えないようにと、これから死ぬというのに買ったばかりの番傘の裏側に書き置きを遺す。「この文章の稚拙さと簡潔さは、創作ではつくりにくい。」と司馬遼太郎は締めくくっている。


  わたくしどもはふうふもの どうぞいっしょにうめてください   

                       十一月二十一日   
                           金三郎 
                           は つ





(この稿おわり)
















日暮里のあじさい
(2015年6月10日撮影)
















































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