正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

瓜生少将の挑戦状  (第66回)

 話題がころころ変わるが、今日はご近所の地図から始める。手元に明治の終わりごろか大正の初めごろに書かれたらしい近所の地図がある。当時のことだから、正確な測量に基づくものではないが、そこに住むものにとっては一目瞭然の目印がたくさんある。

 地図といっても、地形図やロード・マップではなく、むかし個人情報に大らかだったころにあった、ご近所の店や住民の名前だけが敷地や建物をしめす四角形に書き入れられただけの町内図である。だいたい今の根岸と日暮里にあたる。台東区荒川区の境の一部だ。拙宅はこの小さな地図の、ほぼ真ん中に位置するが、当時は空白になっている。たぶん田畑だろう。


 もちろん子規庵がある。その左隣(西側)に陸羯南の家。その筋向いが中村不拙。羽二重団から音無川を渡ったあたりに、高浜虚子(寓居)とある。また、この地図には出ていないが、子規庵からすぐの八二神社(現存する)の近くに河東碧梧桐も住んでいたそうだ。彼らがこのあたりに住んでいたのは、交代で子規の面倒をみるためというのも一因だろう。このころ舞姫を書いたといわれている鴎外の旧宅もある。

 今もある施設としては、根岸小学校、善性寺、天王子墓地など。また松坂屋の男子寮というものあるが、いまはこの百貨店の物流拠点になっている。そして羽二重団子と並んで江戸時代から続く豆腐屋さんの「笹の雪」もある。現在の店舗から少し離れていて、そこの番頭さんにずうずうしくも訊いてみたら、かつての区画整理で引っ越したらしい。


 その笹の雪の旧店舗そばに、「瓜生大将邸」が書き入れてある。うちから歩いて5分くらい。添え書きとして、「日本海海戦瓜生戦隊艦長」とある。「坂の上の雲」文庫本第三巻の巻末資料によると、正確に言えば連合艦隊・第二艦隊・第四戦隊の司令官で、瓜生外吉少将である。

 同戦隊の参謀は真之の同期で、お馴染みの森山慶三郎少佐。第四戦隊に所属する巡洋艦四隻は「浪速」、「明石」、「高千穂」、「新高」。日清戦争のとき東郷さんが艦長だった「浪速」が旗艦であり、瓜生司令官も森山参謀もこの船に乗っていた。

 明治三十七年(1904年)の2月4日、日本は御前会議において対ロシアの国交断絶を決定。この夜、「三笠」には封緘の出撃命令が届いた。第三巻の章でいうと「砲火」の一場面である。長官室に各艦長や参謀が招集され、東郷司令官が初めての連合艦隊命令を出した。「わが連合艦隊は、ただちにこれより黄海にすすみ、旅順港および仁川港にある敵の艦隊を撃滅せんとす」。


 ここでいう敵の艦隊とは、勿論まだバルチック艦隊が来る前であり、ウラジオストクの極東艦隊のことであった。ウラジオストクは冬季、氷結するうえに陸軍が旅順に大要塞を構えつつあったから、旅順港に引っ越していたのだ。

 ただし、その一部が朝鮮半島の仁川港にも留まっていたため、上記のように日本海軍も戦力を完全に集中するわけにはいかず、一部が仁川港に向かった。この夜、「三笠」での会に立ち会った森山慶三郎の手記か談話か、彼が残した回想が二つ収録されている。

 一つがこの命令が発表された場であり、悲壮感があふれている。ガラッパチは「私はただうつむいてだまっていた。涙がこぼれて仕方がなかった。満座のひとはひとりとして顔をあげる者がいない。まるで深山のようであった。」という。一座の雰囲気な多少なりともほぐれたのは、このあとシャンペンで乾杯したのちであった。

 
 そのあとで森山さんは「三笠」の艦内を移動中に、ドアが開けたままになっている参謀室の前を通りかかった。そこで彼は、「二人の稀世の名将が心血を注いで作戦を練っているという感動的な光景」を見る。大きな海図を拡げて、参謀長の島村速雄大佐が、コンパスを握る秋山真之少佐と議論をしていたのだった。

 真之は同期が戸口に立っているのを見て声をかけた。「森山。貴様のほうの戦隊は仁川へゆくことになった。浅間と水雷艇をつけてやる」と試験の神様が言った。かくて森山さんの所属する瓜生戦隊は、旅順港に向かう主力から一時離れて、一回り大きい巡洋艦「浅間」と共に仁川港に向かった。仁川と漢城(現ソウル)の関係は、横浜と東京にあたると司馬さんは書いている。

 第四戦隊の任務は、まずここに陸軍兵を護送すること、ついでウラジオ艦隊の一部を何とか始末すること。また本当なのか表向きの理由なのか知らないが、居留民保護のため、この非常時に唯一隻で仁川湾内に停泊していた味方の巡洋艦「千代田」を救出せねばならない。


 宿題が多い。それに、おそらく戦争が始まるだろう。森山さんいわく「千代田」ほど苦しい目に遭った軍艦は無いという状況で、「千代田」はロシアのずっと大きい巡洋艦ワリャーグ」(前回も出てきました)と砲艦「コレーツ」のすぐそばに停泊中、いきなり国交断絶になった。

 「千代田」の村上格一館長は「ワリャーグ」に神経戦をしかけ、魚雷を向けるなどの挑発行為をして相手を怒らせていたが、或る晩、さっさと港外に逃げた。「ワリャーグ」が追いかけたが、同盟国イギリスの軍艦が避けてくれて脱出に成功している。しかし「千代田」は間もなく、黄海を仁川に向かって出撃してきた瓜生艦隊と遭遇し、一緒になって仁川港に戻って来たから湾内の各国軍艦は驚いた。

 しかし、同盟国や中立国の軍艦がひしめく港内で戦闘行為を始めるわけにもいかない。そこで瓜生司令官は英語で「挑戦状」を書き、「ワリャーグ」の艦長に送りつけた。ちょっと長いので全文は小説をお読みいただくとして、要は「仁川港から出ていけ」「さもなくば撃つ」という、西部劇やギャング映画のような分かりやすいと言えば分かりやすい挑戦状であった。

 
 理由は知らないが、「ワリャーグ」は早くも逃げた。しかも、速度の遅い「コレーツ」を引き連れてノロノロ湾外に出たのだが、敵の一等巡洋艦「浅間」が、外海でこれを待ち受けていた。そもそも真之が「浅間」だけを第二戦隊から引き抜いて「森山につけてやる」という作戦を立てたのは、初戦で負けると士気にかかわるばかりではなく、欧州で日銀が苦労している日本国債の売れ行きと価格に関わる。それに海軍は、こちらは損失を被ることなく相手を全滅させるという無理難題の大目標があるのだ。

 さらに、「ワリャーグ」の悲劇は、「浅間」の艦上に「海軍の侠客」と言われた恐ろしい艦長が立っていたことであった。八代六郎。小説では広瀬と真之の兄貴分という表現も出てくる。かつて八代は真之の教官であったが、アメリカから帰国して作戦の教官になった真之の生徒になって通った。校長格でありながらメッケルの授業に出ていた児玉源太郎と似ている。巨人の時代であった。


 このころ八代さんは、真之教官と意見が合わず激論となり(この二人が激論しては、授業どころではあるまい)、しかし翌日、自分が間違っていたと徹夜の赤い目で八代が真之に挨拶している場面も出てくる。そうでしょうと真之はあっさり言っただけで、作戦家と人格者の差がもろに出ている。

 八代は柔道、ロシア駐在、文学好きで名文家という文武両道において広瀬武夫と共通点が多く、広瀬のロシア行きも八代の影響が大きいのだろう。これについては、いずれまたの機会に。湾口から出て来た「ワリャーグ」を待ち受けていた「浅間」は砲撃を開始し、最初の攻撃でそのうちの何発かが「ワリャーグ」に命中して、これを破壊し大火災を起こした。

 近代日本の欧州先進国との戦争は、日露戦争に始まり太平洋戦争で(今のところ)終わっているが、最初の砲撃がこの「浅間」によるもので、だから章の名が「砲火」になっているのだ。同じころ旅順では、例のマリア祭りの日に水雷艇攻撃が始まっているのだが、砲撃は八代が命じたものが初である。


 さすがは、ヴァイキングの名を負う「ワリャーグ」である。ここに至って敵に後ろを見せることなく果敢に反撃したが、ついに敵せず左傾し、殆どの大砲は破壊されて沈黙した。湾内に逃げ込んだが緒戦から降伏するという不名誉を避けるべく自沈し、乗務員は同盟国フランスの保護を受けた。砲艦「コレーツ」は無傷だったが、同じく自爆して沈んだ。

 森山参謀がこの一方的な勝利を仁川の領事館に報告したが、なかなか信じてもらえなかったらしい。ようやく信じた加藤領事は泣いてしまった。ロシア側は軍艦二隻を失い、死傷者232名。瓜生艦隊は人・船ともに、損害無しであった。このあと第四戦隊は上村の第二艦隊に戻り、対馬沖まで行動を共にすることになる。

 瓜生外吉少将は凱旋後、大将に昇進、亡くなるまで根岸の私邸にお住まいになっている。彼の奥様は津田梅子や、後に大山巌の妻となる人とともに、明治初期の女子留学生に選ばれた才媛であった。




(この稿おわり)






宮古島の海中で、カサゴに会いました。
(2015年7月19日撮影)











































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