正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

明治三十四年九月  (第67回)

 正岡子規の日記「仰臥漫録」は、明治34年の9月に書き始められている。最後に入っている日付は翌年の7月で、その翌々月に他界している。なぜ、これを書き始めたのか、私の知る限り彼は理由を明らかにしていない。題名の通り、容態が寝たきりになったことは明らかである。雑な言い方をすると、他にすること(できること)がなくなってきたか。

 なぜ9月なのかも考えてみた。盛夏は暑くて、それどころではなかったのかもしれない。エアコンが普及する前、お年寄りや病人が亡くなるのは先ず極寒の季節、次が酷暑の季節だった。体温調節だけでも大変である。睡眠も運動も不足がちになる。


 この傍証ともいうべきものが「仰臥漫録」にもあり、日記が一旦、34年10月で途絶え、翌年3月に再開している。その際に子規は、「日記のなき日は病勢つのりし時なり」と添え書きを入れている。冬はつらかったろう。35年も8月は一行もない。

 さて、子規の文章や「坂の上の雲」ほか彼を描いた本などを読んでいると、新暦と旧暦がゴッチャになっているのに時々気付く。太陽暦明治維新の早々に導入されているが、私が子供だった昭和四十年前後も、旧暦や寸尺や華氏は、日常的に爺ちゃん婆ちゃんが使っていたものだ。生まれ育った静岡では今なお頑固に、太陽暦の7月にお盆をやっている。


 では「仰臥漫録」の暦はどちらか。冒頭、女郎花が真っ盛りと子規は書き、鶏頭と一緒に絵まで描き込んでいるのだが、「東京の夏は昔と変わってしまった」と江戸っ子の知り合いが言っているので(むやみに暑いし、夕立が降らない)、花や虫で季節を断定するのは難しい。

 しかし、ちょっと読んでいたらすぐに証拠品が出て来た。明治34年は1901年(つまり20世紀最初の年)であるが、この年の9月16日の日記に、米国大統領のマッキンレーがついに死んだという記述がある。


 ウィリアム・マッキンリー大統領は、1901年9月5日にニヒリストに狙撃され、しばらく生きていたが同月14日に亡くなった。当時の通信事情や日米の時差を考えると、二日後に子規が知ったのも自然のことだろう。つまり、仰臥漫録では、アメリカと同じ太陽暦が使われている。

 マッキンリー政権は、秋山真之が観戦した米西戦争に勝ち、今なお米国領土であるグアムとプエルトリコ(いずれも準州という)を分捕り、後に独立したがフィリピンも手に入れ、さらにハワイ王国を強奪した。ロシア帝国顔負けの領土欲である。

 後継者は副大統領だったセオドア・ルーズベルトである。仮にマッキンリーが生き延びたら、日露戦争は最初から最後まで、この男の大統領任期中だったのだ。ハーバード大学卒ではない。金子堅太郎と同窓ではない。


 アラスカはもっと前にアメリカ領になったが、ここの最高峰も大統領の名にちなんでマッキンレーと名付けられた。植村さんが初の単独登頂に成功し、彼はこれで五大陸の最高峰に独りで登り切った初の人類となった。そしてまだ帰ってきていない。先月、その山は現地の言葉で偉大な山を意味するデナリに改名された。どこにいるの、植村さん。

 これから、しばらく仰臥漫録を話題にしようと思う。ちょうど9月だから。9月2日に始まっており、蒸し暑しと書いているのだが、間もなく寒いとか「ひやひやする」という言葉が盛んに出てくる。病人には9月の気温の低下が身に染みたらしい。



母上の詞 自ら句になりて

   毎年よ彼岸の入りに寒いのは

 

 この句は仰臥漫録よりも十年程前のもので、子規が発病したばかりのころの作品である。この句と、暑さ寒さも彼岸までという諺が両立するためには、春の彼岸の入りはまだ寒く、秋の彼岸の入りはもう寒くなり始めているということになろうか。ちなみに母上のお八重が、期せずして原作者になったのは春のお彼岸である。

 仰臥漫録は、子規自身の体調と食欲、来客と家族の言動、庭の風景の描写と俳句がほとんどである。彼の目に映る全世界であった。初日の9月2日は庭に咲く前出の花々に加えて、へちま、ひょうたん、夕顔の種、何だかわからないが、それらに似たものの数と絵が描かれている。

 次にお馴染みの食事の内容。毎日、夕食まで書いてあるし、この日の記事に明け方、少し眠ると書いてあるので、翌日になって書いているのだろう。このころすでに子規が新聞日本やホトトギスに載せる文章は筆談によるものになっていたようだが、仰臥漫録は絵に説明書きが入っているので、たいてい自分で書いていたらしい。内容は次回以降。




(この稿おわり)








小川町駅にて (2015年9月17日撮影)





















































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