正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

病床の食欲と体調  (第68回)

 何だか真面目なタイトルだが、子規の「仰臥漫録」における食欲と体調は、尋常のものではない。約一年後に亡くなる重病人の食欲としては、子規について書く人が皆、好んで取り上げるように旺盛なもので、同年代のころの普通に働いていた私より多分たくさん食べている。

 多分と書いたのは、分量が分からないからだが、その品数とお代わりの回数、そして朝昼晩欠かさず食べているうえに、昼食と夕食の間に間食というのが、しばしば登場する。飯と味噌汁、魚に野菜、大好物の果物にお菓子。

 
  今日これを書くにあたり、ふと思い立って子規庵に行ってきました。ここ数日、働きづめで疲れが出たため、午前中は休みにして出かけたのだ。天気晴朗。拙宅から子規庵まで徒歩で5分くらい。あまりに近いので滅多に行かない。三年に一度ぐらいであろうか。昔も今も入場料は500円。

 知らずに行ってみたら、明日から臨時休業である。こういうところが私の人格のなせる業と威張りたいところであるが、やっぱりその直前とあって大混雑であった。まあいい。前に入ったときには展示していなかった日清戦争従軍時に持参した刀なども置いてあった。 



 前回は冬だった。今日の季節は彼が最期のときを迎えた秋。思った通り、へちまの実が成っている。「仰臥漫録」の最初の頁にも、へちまの絵と説明文が載っている。もう足腰が立たない彼も、ガラス窓の外を見れば、この大きな実が見えたのだ。最後の秋、その水を取ることはできなかったが。

 子規は単に食い意地が張っていただけなのだろうか。初日の9月2日の日記に、「この頃食い過ぎて食後いつも吐きかへす」と書いている。たくさん食べる男だったから業病に取りつかれながらも、比較的、長生きしたというのが「坂の上の雲」ならず、多くの評者は言うのだが、ただの食いしん坊ではないように思う。子規は少しでも元気に、少しでも長く活動しながら生きたかったのだ。そのための工夫は食事しかなかったのだという気がする。


 それに、彼を苛んでいたのは嘔吐だけではない。仰臥漫録の冒頭だけでも、頭痛、筋肉痛、下痢、便秘、歯の膿、呼吸が苦しく動悸で眠れないなどと書いている。そして包帯を取りかえるときの号泣絶叫、乱叫乱罵。それなのに私と共通する好物であるカツオの刺身を頻繁に食い、ウナギのかば焼き七串も平らげ、ココアや葡萄酒まで飲んでいる。

 ところで本日と同じ日付の9月30日(明治34年)の日記は少し長く、内容も特徴がある。この日は日本新聞社の月給日だったのだ。墓碑のとおりで、四十円を受け取っている。子規は学生時代を思い出し、卒業したら五十円の月給取りになるという「妄想」を抱いていたと記している。


 ところが病気で大学を中退した。私が若いころ文学者といえば早稲田中退という印象を勝手に持っていたが、子規は帝大中退、すなわち他に例を知らないが東京大学を自らの意思で辞めた。時間がない。文藝の事業をしなければならなかったのだ。

 安月給ながら採用してくれた社長で隣人の陸羯南は、「坂の上の雲」にも「仰臥漫録」にも書いてあるように、自社よりもっと給料の高い新聞社を斡旋すると言ってくれた。当時の大人にとっては普通の親切なのだろうか? 子規は蹴った。最初から最後まで恩人の会社で働いた。その甲斐あって昇給もしている。


 晩年はこの四十円に加えて、「ホトトギス」の原稿代が毎月、十円入って来ると書いている。つまり中退しても、五十円の夢を果たしたわけだ。おそらく、それで勢いが付き、9月30日の日記には、「この月の払ひ」という家計簿まで記録している。これが最初で最後になったが。燃料と家賃を除き、ほとんどが食品関係でエンゲル係数が相当に高い。

 「仰臥漫録」の話題は尽きない。されど、しばしこの書を離れ、次回は別の話題をとりたい。先日、小旅行をしてきたので、新鮮なうちにその感想を先に残しておきたい。「坂の上の雲」に登場する人物や、同時代人に関わりのあった宿に泊まったのです。





(この稿おわり)





(2015年9月30日、子規庵にて撮影)


鶏頭や糸瓜や庵は貧ならず   子規  (明治三十四年九月三十日)




子規は柿が好きだった。左は陶器の柿の木(推定明治時代)。右は柿本人麻呂像。
(2015年9月22日、その旅館にて撮影)








































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