正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

湯河原  (第69回)

 前回、旅の記憶が新鮮なうちに書こうと言っておいて、日が経ってしまった。今月は妙に忙しい。さて先月、一泊二日の小旅行で湯河原に行ってきた。読んで字のごとく、温泉街である。東海道線に乗って東京から西に進むと、湯河原駅が神奈川県の最西端の駅であり、次の熱海駅から静岡県である。

 このあたりや伊豆半島は、富士箱根伊豆の火山地帯にあり、放っておいても湯が沸く。平時ならば。先般、箱根の噴火警戒レベルが初めて「2」になったが、ちょうどこの旅のころに「1」に下がった。それでも何時、何が起きるか分からないということを、大震災は忘れっぽい日本人の脳裏に刻んだ。


 泊まった宿は本格的な温泉旅館や大ホテルではない。かつて有力政治家の別邸だったものを、そのままの形で民宿のように使っている。口コミ頼みますと最後に言われたので、ここにその名を出して宣伝に一役かいます。宿の名は「清光園」という。
http://seikouen-yugawara.com/index.html


 この別邸を造った政治家とは、サイトにもあるように長州の井上馨である。幕末のころ井上聞多と名乗り、藩内の政争で全身数十か所にわたり刺客に斬られ、それでも生き延びたというお話しで名高い。そのあと伊藤博文らとイギリスに密航し、攘夷は諦めて開国に転じた。


 上の写真は、その清光園の入り口。左の写真はその一室に掲げられた伊藤博文の真筆。光風動春。ちなみに、前回、陶器でできた柿の飾りと柿本人麻呂像の写真を載せたが、これらも宿に残る古物の一つである。念のため、全て宿主のお許しを得て撮影しました。あまり口コミが上手くないので、写真コミに挑戦している。

 正確にいうとサイトの住所にもあるように、この建物敷地の地番は神奈川県の湯河原町ではなく、静岡県熱海市である。ただし、誰がどう見ても湯河原温泉郷の真っただ中にあるし、交通も鉄道とバスを乗り継いでいく場合、湯河原駅から奥湯河原方面のバスに乗る。降りるバス停も引き続き神奈川県内。

 ただし、園はそこから両国橋(相模国伊豆国の意であろう)という小さな橋を渡ってすぐのところにあり、その千歳川が国境になっているのだ。ちょうど秋の長雨のシーズンとあって水量豊かであった。]



 井上馨は「坂の上の雲」に登場する。ただし、余り出て来ない。記憶の限りでは、たった一度、元勲の一人として新総理の桂太郎が葉山の別荘に、うるさい長老を集めて日露開戦の合意取り付けを図った際に、井上馨が興津から来たと書かれているだけで全く活躍の気配がない。興津とは、今では平成の市町村合併により私の故郷、静岡市の一部になっているが、その前は独立した風光明美な町で、井上はここにも別荘を建て、そこで死んだ。

 どうも司馬さんは井上馨のような、金の匂いのする政治家がお嫌いのようで、さらに彼には人物のランクを付けたがる癖があり、井上が一等級と見なされていないことは「十一番目の志士」のラスト・シーンでも明らかだろう。あだ名が「三井の番頭さん」であったことは良く知られている。渋沢栄一とも親しかった。確かに財界に近い男だっただろうが、その点に限れば、坂本龍馬も似たようなものではないかい。


 渋沢栄一のお墓は、拙宅の近所の谷中墓地にある。いつもは囲いに鍵がかけてあって近寄れないのだが、去年、土地の整備をしていた際に現物を拝見してきた。巨大なお墓である。この井上や渋沢らに組閣の話があったという説があるが、本当だろうか。タイミングは日露戦争直前の財政危機などで伊藤内閣が倒れたときである。渋沢が断って話が流れ、そこで慌ててこしらえたのが前述の桂内閣ということになる。少なくとも「坂の上の雲」では、全くこのエピソードに触れられていない。
 
 いつだったか、伊藤博文三遊亭圓朝に盃を勧め、師匠が遠慮していたら小村寿太郎が気にすんなと言いたい放題だったという場面を取り上げたが、井上馨渋沢栄一円朝さんと親しく、どの本だったか忘れたが、井上も伊藤と同じように円朝に杯を勧めるシーンが出てきたのを覚えている。円朝が先に亡くなり、その死を悼んだ井上が建てた追悼碑が、頑張れば歩いていける距離のご近所に今でもある。


 円朝師匠のお墓は、この碑が立っているお寺にある。寺の建立は、「坂の上の雲」に明治天皇の愛顧を受けた「ぼっけもん」の一人としてその名が出てくる山岡鉄舟だが、鉄舟居士については長くなるので稿を改めよう。先日も円朝師匠のお墓参りをしてきた。何度も寄っているが、お花が絶えたことがない。これほど大事にされているお墓というものを他に知らない。

 清光園で朝起きたとき、小鳥と法師蝉の鳴く声が、千歳川の流れ落ちる音にまぎれて聴こえて来た。東京ではうちの目の前にある大通りを走る車と、その向こうを走る山手線ほか幾多の電車の轟音で目覚めるのだが、これだけでも来た甲斐があったと思える里の早朝であった。泊まった部屋にあった襖(ふすま)の篆書体、全く読めないが実に美しい。今回は最後にその写真を掲げよう。次回も折角なので、湯河原巡りのおまけつき。




(この稿おわり)






清光園の遠景  (2015年9月22日撮影)



篆書ふすま  (2015年9月23日撮影)


































































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