正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

仰臥漫録 秋二題  (第71回)

 子規の「仰臥漫録」から、あと二つほど秋に書かれた日記の話題を出します。前回触れたように、この日記はどんな事情か知らないが、二冊に分かれている。原本は虚子記念館にあるそうで、私は現物も写真も見たことがないが、二冊目の表紙「仰臥漫録 二」という子規の直筆が岩波文庫にも掲載されている。

 一冊目の最後の日付は本日この日と同じで、10月13日。明治の三十四年。この日は特別なことがあり、子規は書きたいことがたくさんあって、一冊目で終わらず、二冊目の最初も同じ日の日記が続いている。次に10月14日の記事が出てくるから、この理解で間違いなかろう。


 この日の特別なこととは自殺未遂、とは言い過ぎであれば少なくとも希死念慮である。1901年10月13日、子規庵の近所は「大雨恐ろしく降る」という天候であったが、「午後晴」になった。日記は「今日も飯はうまくない」という、この人らしい体調の表現で始まる。

 この日の午後、妹のお律は風呂にいくと言って出かけた。子規は「俄に精神が変になってきた」ため、枕元で黙っていた母のお八重に、友を呼ぶ電報を打ってほしいと頼んだ。家に彼一人残った。寝床から見ると目の前に、硯箱がある。その中に筆、体温計、そして千枚通しの錐(きり)と、小刀があった。「さなくとも時々起らうとする自殺熱はむらむらと起こって来た」。


 彼はこの小道具では命を絶つのは難しそうだと考える。別の部屋にはカミソリがあるのだが、彼はもう這って移動する体力すらない。結局、カミソリは諦め、自殺も思い止まった。理由まで書いている。死ぬことは怖くないが、しくじって苦しみが加わるのが怖ろしかったということだ。

 これだけでも凄惨だが、彼の不思議さは、この錐と小刀の画を丁寧に日記に写生していることである。彼の随筆「墨汁一滴」や「病床六尺」は、新聞日本に掲載したものだから、活字だけである(少なくとも文庫本ではそうなっている)。しかし、「仰臥漫録」は日記だから何を書いても自由であり、おかげで子規の絵や文字も鑑賞することができる。


 それにしても、この凶器寸前まで行った道具類の絵を描く心境というのはどういうことなのだろうか見当もつかない。凡人の想像力で無理して考えるに、この絵といい長文の日記といい、この日の子規は何かを書いていないと気が鎮まないほどに辛かったのか。「逆上」と言う言葉が繰り返し出てくる。

 さらに、錐と刀の写生画の上に、「古白曰来」という文字四つが書き留められている。何の説明もない。古白とは子規と仲が良かった従兄弟の藤野古白だろう。子規が日清戦争の従軍記者として中国に渡っていた間に、拳銃自殺した。その古白が「来い」と呼んでいるという意味なのだろうか。


 この話題だけでは私自身も辛いので、もう一つ、約一年後の明治三十五年九月三日の日記を読む。子規の命はあと一ト月もない。この夜、子規は「夜開草ノ花」を写生した。つぼみも含めて複数の絵がある。夜開く花を咲かせる草とは、辞書によると「ヨルガオ」。俗に私たちが夕顔と呼んでいる白い花だ。

 この日は前回に触れた東海道五十三次について書いた翌日に当たる。そして、この日を最後に「仰臥漫録」からは日付が消え、日記というよりも備忘録のような手帳風の書き物に変わっていく。子規は日付の記録を必要としなくなったらしい。


 この夕顔の絵の横に、珍しく四行の漢詩が書かれている。作者名がないから、子規の作品なのだろう。最初に「仰臥漫録」を読んだときは、さっぱり意味が分からなかった。今は少しばかり見当がつく。

 六月団匪起八月君王多謝柴
 中佐不使敵越牆
 独軍不礼知露軍不重名
 粗食而愛国只有日本兵

 
 部分的にルビが振ってある。若干の私見を加えて読み下してみる。6月、匪賊の団が決起。8月、君王は柴に多謝す。中佐、敵に障壁を越えさせず。ドイツ軍は礼儀を知らず、ロシア軍は名を重んじず。粗食にして国を愛すは、ただ日本兵のみ。こんな感じでしょうか。

 最初は三国干渉のことかと思った。しかし、1985年の出来事であり、かなりの年月が経っているし、もう一国のフランスの名がない。それに匪賊とは何か。義和団の乱とそれに続く北信事変が起きたのは、この日記の前年である。時事だとしたら、こちらのほうだろう。


 この事件は「坂の上の雲」の文庫本第二巻、「列強」の章に短いけれども記載がある。小説によると、義和団の乱を平定するという名目で、「列強」諸国は出兵した。日本も出兵するがイギリスとアメリカが賛成したのに対し、ロシアとドイツは難色をしめした。

 帝国主義後進国と呼ぶべきロシアとドイツを司馬良太郎は「つねに息せき切った思考法をした」と表現している。さらに、北清事変のあと列強は略奪の限りを尽くすが、その略奪を始めたのは当事者国の大蔵大臣であるウィッテによると、ロシアとドイツであったらしい。

 
 ただし、不平等条約の改正のため国際法の従順な遵守者であった日本は、子規の詩に出てくる「中佐」の「柴」が駐在していた期間、この略奪行為に加わらなかったという。陸軍中佐柴五郎は、会津出身。秋山好古士官学校で同期。秋山真之とともに、米西戦争の観戦武官となり、帰国早々に出陣したものだろう。

 ロシアは将軍のリネウィッチ(奉天の第一軍司令官)からして、略奪に加わっている由。漢詩にある6月と8月とは、柴中佐らが指揮した北京籠城戦の期間に一致する。これだけ類似点があれば、まず大誤解ではあるまい。子規が何を思ってこの詩を書き留めたのかも記されていない。混乱の清国、北京と天津に各国が駐屯する。日本の天津駐在軍司令官に任命されたのが好古だった。





(この稿おわり)





子規の作品に頻繁に登場する秋海棠
(2015年9月30日、子規庵にて撮影)











































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