正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

大原氏ニ養ハル  (第72回)

 今回は話題があちこちに跳ぶ。文字どおりの雑記帳です。こうして、いろいろ読書や調べ事をしていると、何だかんだと人や土地に相互の関係があって、それを知るのも地理・歴史好きの楽しみである。どこから始めるか。最初は今、中断している「小寺文書」という、もう一つのブログに関わることからにしよう。以前書いたが、遠縁が黒田官兵衛の親戚であると主張しており、私が読める「古文書」まである。

 官兵衛は息子の長政ともども、福岡藩の始祖となった。黒田家はお取り潰しの目に遭うことなく、無事、幕末を迎えたのだが、無事過ぎたか幕末の福岡藩は動きが鈍かった。内紛もあった。黒田の家だから、何年か前、どんな人物が幕末維新のころに出たか、ちょっと調べたことがある。ちょっと。平野国臣。解説不用であろう。海音寺潮五郎の小説に、彼が錦江湾に船を浮かべて夜、笛を吹いている場面が出て来た。このあと西郷隆盛が入水して大騒ぎになった。平野の活躍がなかったら...。


 月形洗蔵も同郷の人。「月さま雨が」で名高い月形半平太は、上下いずれも珍しい名だろうだから、彼と武市半平太にあやかったということで間違いあるまい。野村望東尼。幕末には珍しい女性の志士で、しかも出家なさっている。いずれも藩の組織が弱体化していたため、大変な苦労をなさった。これに比べれば、もう少し後から出て来た人たちは、まだしも活躍の場を得た。でも別種の苦労をしていなさる。

 小説「坂の上の雲」に出てくる人の中では、登場場面の多さからすると、アメリカで和平の準備にあたった金子堅太郎と、東欧で地下組織の工作に従事した明石元二郎が同藩の出身者である。いずれも、薩長土肥の官軍側ではないから、周辺域での活動であり、どことなく始祖の官兵衛と似たような曲者の匂いがして面白い。それから、登場人物というより、名前だけだったと思うが福本日南もいる。


 書生時代の日南は、陸羯南原敬が大学の校長先生一派と対立して放校処分になったときの一人である。それも今でいう東大法学部であるから、文系の頂点であり高級官僚養成機構なのだが、何とも昔の学生は鼻息が荒い。福本さんは後年、陸羯南が設立した新聞日本の記者にもなった。子規の先輩にあたる。そして、この放校仲間に、加藤忠常もいる。子規の血のつながった叔父さんであった。

 すなわち、幼き子規に松山で漢文を教えたのは漢学者の大原観山先生だが、その娘が子規の母お八重で(子規自作の墓碑銘にあるとおり)、その弟が加藤忠常であり、号は拓川といった。大原と加藤というふうに名字が違うのは、三男の彼が断絶した親類の加藤家を継いだからだ。忠常は終生、同郷の秋山好古の親友であったと書いてある。フランス留学仲間でもあった。

 さらに、加藤の叔父貴は子規にとって恩人でもあった。上京したときもこの叔父を頼って来たのだし、何度も生活費のお世話になっている。加藤叔父は親切なおじさんであり、旧友の陸羯南に子規の就職まで頼んでくれた。子規の生業がひたすら新聞記者たりえたのは、この二人の公私にわたる大恩による。


 雀の子忠三郎も二代哉。正岡子規、1902年の句である。この年、幼名を忠三郎といった加藤の叔父さんに男子が生まれ、その子も忠三郎と名付けられた。喜んだ子規がお祝いの手紙を書き、それに添えたのがこの句である。俳人長谷川櫂さんは、雀の鳴き声と「忠」の音が似ているという連想から来ているのだろうと評しておられる。

 それに子の誕生が五月で、雀の子が巣立つ季節でもあるという。さらに加えれば、子規は小さな動植物が好きで、雀を詠んだ句もたくさんある。この忠三郎の二代目が、長じて後年、跡継ぎを残さず亡くなった子規を継ぐ形で、妹のお律の養子となり正岡家の後嗣となった。「ひとびとの跫音」の冒頭で、司馬遼太郎は阪急の本社に行こうとして梅田の町中で道に迷っているが、忠三郎さんは一時期、阪急電鉄の車掌さんだった。

 子規はお八重の祖父に古典の勉強を教わり、叔父に経済的な支援を受け続け、母に最後の日まで看病してもらい、甥が彼の跡継ぎとなったのだから、見事なまでに母系一家である。しかも幼い頃に父が病死しているのだから、なおさらだ。


 さて。少し前に今東光著「毒舌日本史」を引いた。和尚の母方の実家が弘前にあり、陸羯南弘前藩藩医の出であった。立見尚文弘前師団長であった。一戸兵衛も弘前人だ。剛毅な男たちばかりである。

 更にもう一人、書き残した人がいる。「坂の上の雲」には出て来ないが、同時代の人で子規より2年前に戦死している。日本の戦争ではなく、後に辛亥革命と言われる孫文の挙兵においてであった。山田良政という。最初に「毒舌日本史」を読んだのは二三十年前で、そのときは記憶に残らなかった。

 昨年、読み直したときには少し驚いた。和尚がこの本に書いているのだが、孫文は良政を祀る碑を弘前と東京に建てたそうなのだが、その東京のほうの碑がうちの近所にあるのだ。しかも、先日ご案内した井上馨円朝師匠のために建てた碑のすぐそばに建ててある。場所は谷中の全生庵。その入り口を少し入ったところにある。故郷の弘前は分かるが、孫文がなぜ東京谷中を選んだのか、私にはいまだに正確には分からない。


 この全生庵は、前にも書いたように鉄舟山岡鉄太郎が建立したもので、その鉄舟、勝海舟高橋泥舟の三人を描いた「幕末三舟伝」という本を書いた頭山満も、幕末維新のころの福岡出身である。この本はまだ読んでいない。後のお楽しみ。

 それにしても、頭山満という人は私には到底、つかみどころがないお方で、一体どういう人物だったのか、ネット情報程度では輪郭もつかめない。あまり司馬さん好みではなさそうだ。このためか頭山さんの名は、「坂の上の雲」には出て来ないが、でも「跳ぶが如く」にはちょこっと登場する。前原一誠接触があったのだ。早めに暴発したため、前原は死に、頭山は投獄され、その間に本来は合流したかった西郷が亡くなったため会えなかったらしい。


 西郷さんと鉄舟は、私の故郷の静岡で会っている。この話は長くなるので、いつかどこかで書こう。私は全生庵で、西郷と鉄舟の書を観た。字が達筆なうえに太すぎて読めなかった...。清水次郎長の手紙は、ほとんど仮名ばかりだったので読めた。

 このあとで、いつものようにずうずうしく取材癖を発し、なぜ山田良政の碑を孫文が谷中に建てたのか、当の全生庵の寺務所に訊いてみた。ありがたくもシンプルながら充分なご回答を頂戴したのであった。この縁を結んだのは、頭山満というお方だそうです。そういう返事が返ってきた。それにしても、忠三郎の句は、子規らしく明るい調べだが、彼はこのあと半年も経たずして亡くなっている。まるで生まれ変わりのようだ。




(この稿おわり)






山田良政君碑  (2015年9月30日、全生庵にて撮影)









空も秋めいてまいりました。
(同日、谷中にて撮影)









































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