正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

連隊旗  (第79回)

 明けましておめでとうございます。今回も余談から始めます。今年は健康回復が目的の一つなので、新年早々、初詣のため近所の神社を歩いて回りました。これだけお詣りすれば、どれか一つくらい、願いを聞き入れてくれるであろう。しかも、各神社共に複数の神様を祀ってあり、一柱くらい私と相性が良い神様がみえるのではと期待も高まる。それにしても、どこも混んでいる。神々も忙しかるらん。


 左の写真は1月2日にお詣りした台東区下谷にある神社で、創建は平安時代の初期と伝えられる小野輝崎神社という。ちょうど遣唐使のころだ。今の社殿は主に江戸時代に引越ししたときに建てられたものらしい。現物を初めて見たのだが、境内には江戸で流行ったという富士塚もある。重要文化財。富士山の溶岩でこしらえたミニチュアである。私が卒業した小学校にも、似たようなものがありました。

 
 この神社名にもその名が含まれているが、御神体平安京の公家さんというから、ちょっと異色ではないだろうか。小野篁さん。文武両道の硬骨漢だったそうで、百人一首には参議篁の名で登場する。名字が同じということもあって、小野小町は彼の縁者という説があるらしい。菅原道真卿も祀られており、天満宮ではないが学問の神様なのだ。ありがたや。

 浅草の近辺では大神社であるお酉さまや三嶋さまと共に、「たけくらべ」にも名前が出てくる。この「さま」という敬称が良いねえ。本来、神社は庶民の信仰対象なのだ。なお、上の写真は、この神社の裏山道に建てられているものだが、その側面と裏面が右の一枚である。ここにも一戸兵衛さんの名がある。あちこちにある。行く先々にあるような気がしてきた。


 さて「肉弾」の「第二」の章は、「大命下る」という題である。大命とは、もちろん明治天皇のご命令であるが、もちろん著者に下ったではなくて、所属の師団に待ちに待った大命が下ったときの感激を記録したものだ。そういえば師団長クラスまでが、天皇の御親任であると「坂の上の雲」に出て来た。

 戦後生まれなので、これら陸軍の組織名に疎い。しかも時代により、戦場により構成や機能が異なるようである。だから日露戦争のころは、自分なりにこういう理解でひどい間違いではないだろうという大雑把なイメージを持って読んでいる。大別すれば、語尾に「団」がつく師団や旅団と(師団の上に「軍」がある)、「隊」で終わる連隊、大隊、中隊、小隊がある由。


 日露戦争時でいえば四つあった軍は、それぞれ戦地も目的も異なるのだから独立の大組織なのだ。そして、各戦闘地点に派遣される単位をみていると、「坂の上の雲」も「肉弾」も師団や旅団が大半のようだから、団までが戦略単位で、隊が戦術単位と大別してとらえても、大きな誤解にはならないように思う。

 どなたか、もっと素人にも分かりやすい説明の仕方があったらぜひ教えてください。それまで、この感覚で進めます。ところで、私個人にとって分かりやすいのは師団と連隊で、なぜなら番号以外にも土地の名が必ず付いているので覚えやすい。それに「普段はどこにいるか」という目印になる。

 
 師団はかつての鎮台さんが先祖で、その後、倍増した。いずれにせよ地域を統括するもので、北陸なら北半分が弘前、南半分が仙台と思っておけばよかろう。そして連隊は、或る程度の規模の都市に置かれたようである。八甲田山の雪中行軍は青森市弘前市の連隊によるものだった。真ん中の規模である旅団は、混成旅団などという名称も出てくるから、もう少し弾力的な編成のような気がする。

 櫻井少尉が所属していたのは四国の第11師団で、松山の歩兵第22連隊と地理的に分かりやすいから便利。ところが、「肉弾」では我が師団、我が連隊という言葉が頻出するのだが、地名や番号が殆ど出て来ないため、最初に読んだときは、どこの軍隊で、どこの兵隊さんなのか判然としなかった。「大命下る」も、「我が師団」に下っている。


 もっとも改めて読むと、最初のほうに善通寺という地名が出てくるので、香川県だろうかという推測がつく。善通寺は第11師団の指令部の所在地である。それに、この師団の初代師団長が乃木希典だったのだから、乃木さんと櫻井さんは、このような縁まであったのだ。

 また第三の章、いよいよ出陣の日、金亀城頭から三発の号砲が打ち出されたという記載があるが、金亀城というのは正岡子規の郷土自慢の象徴である松山城のことだ。著者の上官は、第11師団長が土屋光春中将、歩兵第十旅団長が山中信儀少将(好古も少将だった)、歩兵第22連隊長が青木助次郎大佐。


 著者はこの青木連隊長付きの「連隊旗を捧持する重任を担いて出征」したのであった。櫻井氏や「肉弾」になぜか悪意を抱く者がいて、旗手だったから安全であったとインターネットに書き込んでいる。一面ではその通りだったかもしれない。だが彼が連隊旗手だった期間中は、敵襲をほとんど受けなかっただけで、要はひたすら攻撃の継続だったから、そういう結果になったと言えるだけである。

 軍旗が軍隊にとって、どれほど重要なものであるか、また、いざというときどういうことになるか、ここで私がくどくど書くまでもない。一例だけ挙げる。西南ノ役で小倉の第14連隊は、薩軍の攻撃を受けて潰走し、旗手の河原林少尉は戦死して軍旗を奪われた。乃木連隊長は、それを理由として殉死している。

 ともあれ、歩兵第22連隊に大命が下ったのは、1904年4月半ば(別の資料によると同19日らしい)、出征日は本人の記憶も明瞭で5月21日である。この三日前の同18日に好古が宇品港を出て、遼東半島に向かったと「坂の上の雲」文庫本第三巻「陸軍」にある。行き先も時期もほぼ同じであった。すでに黒木の第一軍は九連城を陥し、奥の第二軍が戦闘開始直前のころに当たる。




(この稿おわり)





小野輝崎神社の富士塚  
(2016年1月2日撮影)



































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