正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

長山列島  (第81回)

 櫻井少尉の連隊は、1904年5月21日に出陣し、その日の暮れには「馬関の海峡」すなわち今の下関沖を通過した。そして数日をかけて、対馬沖の日本海を渡っている。ちょうど一年後の五月に、海軍の一大決戦場になるところだ。

 このころの陸軍は、黒木第一軍が朝鮮半島を縦断し、5月1日に九連城を落として、日本国債の売上に貢献した。同じ日に日本では第三軍の編成が正式決定され、間もなく乃木大将に辞令が交付されている。奥第二軍はすでに遼東半島に渡って戦闘準備中であった。


 この第二軍は第三軍の新設時に、編成替えがあったらしい。例えば、乃木一家は東京に居宅があったため、彼の二人の息子は東京の第一師団に属していたはずである。長男は当初、第一師団が第二軍に属していたため金州で戦死し、次男は師団ごと第一軍に編入されて旅順で戦死した。

 櫻井少尉によれば、彼らを載せた鹿児島丸の行き先は連隊長と船長しか知らなかったそうだ。したがって本人も含め他の士官や兵隊は、何処に向かうのだろうと大議論をしていたらしい。その話題も尽きて、やることがなくなってきた。海軍兵なら元商船の上でも、いろんな訓練ができるだろうが陸軍は勝手が違う。


 かといって、じっとしていてはせっかく高揚している戦意に差し障りがあるだろうということで、始まったのが「隠藝」であった。かくしげい。もはや古語だろう。ここ三十年ほど聞いたことがない。小道具は無いから、怪談、落語、詩吟などの即興大会をしている。「肉弾」では最初で最後の、のどかな風景であった。なお、同じ輸送船の常陸丸は、この翌月にウラジオ艦隊に襲撃され沈没している。

 船は「漠々たる雲煙の中々に晴れやらぬ對州を見送って」とあるから、このときも対馬沖は余り天気晴朗ではなかったらしい。やがて、朝鮮半島の連山を眺めつつ、一路、北に向かった。そして5月23日、鹿児島丸の船長は記念に皆の自署がほしいと言い出した。


 櫻井さんは半紙に鹿児島丸航海の絵を描き、連隊長の青木大佐以下、三十七名がこれに官名と姓名を書きならべたという。そして、この中で生きて戻ったのは数名だった。帰国後の著者は死んでいった戦友にとって、この運命は彼らの「本懐」であり、「その栄誉を羨み」つつ、「九段坂畔蘘國社頭に、幾萬忠義の心霊」を拝し、かつての連名戦友の「英魂を追慕」した。

 靖国神社には「顕彰」という私があまり好きではない言葉が最近よく使われるが、それも運よく戦争を実体験していないからこそ言えるものだろう。遺族や生き残った将兵は、そんな応援団気分でいられるはずがなく、あえて今の私で言えば、かつて一緒に過ごした家族や友人の墓参りに行くのと同じような、そしてもっと強く複雑な思いが心中、交錯していたものと思う。


 5月24日の午前、鹿児島丸は「長山列島付近を航進していた」とある。長山列島は現在、中国の領土で、遼東半島の真ん中あたりの黄海側に点在している。外洋側を外長山列島といい、内側を裏長山列島と呼ぶ。

 後者の裏長山列島は、「坂の上の雲」文庫本第三巻の巻末の地図や、第四巻の「黄塵」の文中に出てくる。連合艦隊はこのころ旅順口を攻めていたが、非戦闘時はこの列島に身を寄せ、旅順からの砲撃をかわしていたのだ。


 鹿児島丸の人々も、幾十隻の軍艦が黒い煙を並べて吐いているのを見た。やがて一隻の巡洋艦が近づき、道案内と護衛を兼ねてのものだろう、鹿児島丸と同行した。海軍にとっては大変な時期で、二次に渡る旅順港閉鎖作戦も上手くいかず、この直前の5月15日には戦艦「初瀬」「八島」を触雷で失った。

 また同じ日に、真之が英国から引っ張って来た「吉野」も衝突事故で沈んでいる。ちょうど旅順の戦略的な重要度が増してきたころ、著者の連隊は遼東半島を目指していた。




(この稿おわり)



「三笠艦上之図」のレリーフ
(2016年2月10日、靖国神社にて撮影)













































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