正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

上陸地点  (第82回)

 櫻井少尉が「肉弾」に記すところによれば、彼らの連隊が乗船した鹿児島丸の行き先は、連隊長と船長の二人しか知らなかったらしい。尉官かつ連隊旗手の職にある著者すら教えてもらっていなかった。そういうものなのか。

 口が軽い兵とか、万一敵に通じている者があれば、秘密が漏れかねないので、必要最小限の責任者だけに伝えられるものなのだろう。確かに戦争相手に小部隊の行動計画が漏れたりしたら、待ち伏せされて大変な騒ぎになるに違いない。しかし、いきなり敵は本能寺と言われた兵もたまげただろうな。


 長山列島沖の南方を進み、海軍との接触もあったため、一行はようやく船の進行方向が旅順方面であることを知り得て、「衆は等して望めり」「我らの快感」ということになった。十年前の古戦場である。多くの先輩の兵が眠っている。日清戦争のときは大山巌の第二軍が、旅順を一日で落としているのだ。腕も鳴ろう。胸も躍ろう。でも相手が違ったのだ。

 ちなみに、長山列島で待ち構えていた海軍が巡視船を護衛につけてくれたということは、連合艦隊の編成でいうと片岡七郎中将の第三艦隊かもしれない。主に日清戦争のころ現役だった船を集めたもので、でも帝国海軍は一隻たりとも無駄にする余裕はなく、片岡艦隊も輸送や護衛、索敵などの仕事をしている。日本三景も、敵艦ミユの立役者、和泉もいる。


 他の資料によると、第三軍の編成が決まり出征命令が下ったのは1904年5月20日で、著者が属する松山第22連隊に大命が下った日の前日らしい。ということは、著者たちが知らないだけで、すでに第22連隊は第三軍に編入が決まっており、翌日早速、出発命令が出されたと考えて不自然ではない。

 乃木将軍は、この5月中はまだ出陣の準備中であり、6月1日に東郷平八郎司令長官とともに、中将から大将に出世した。後に派遣される野津道貫の第四軍を除き、殆ど戦時体制はこの時期に決まっている。この時期になった理由の一つは、先兵の黒木第一軍の勝利と、日本国債の売れ行き好調を受けて、本格開戦の支度が整ったのだろう。


 鹿児島丸の上陸地点は、「肉弾」の旧字体の漢字を現代風に直すと、「半島の東側」にある「塩大澳」(ふりがなは、エンダイオウ)である。この地名は、文庫本第三貫の巻末地図に出てくる。奥第二軍の上陸地点がここだったのだ。連隊レベルの上陸地は、選択肢が二つだけだったはずである。ここか、鴨緑江のあたりにいる黒木第一軍の方面か。

 地名のうち「澳」という字は、あまり日本ではお目にかからないが、中国語辞典で見たら「入り江」の意味らしい。どこかで見た字だと思っていたら、東洋屈指のギャンブル会場、マカオを漢字で書くと澳門であった。さんずいに奥。入り江らしくてよい。この時期、遼東半島の代表的な港である大連は、またロシア軍が占領していて使えないのだ。


 入り江なら入り江らしく、良港であるべきだろう。ところが、当日たいへんな荒天であった。鹿児島丸は接岸すらできず、一里もの沖に停泊して小舟を出し、乗り換えて陸に向かったが、著者らは無事、上陸出来て運の良いほうだった。中には、この日に陸に上がれなかった人たちもいたらしい。

 転覆したボートもあった。ある小舟には馬が乗っていた。好古たちの騎馬ではなくて、荷物運搬等の「駄馬」であった。しかし、著者の目の前でこの馬の担当者だったらしい兵卒が、海に落ちて泳ぎ出した馬を追って自らも波浪の中に飛び込み、やがて人馬もろとも沈んだ。著者は悲しみ、また名誉ある戦死の魁であったと書く。


 どうやら著者は馬に愛着があったようで、別の箇所においても、泣き言さえ漏らさず働き続け、ケガをしても手当もしてもらえずに死んでいく軍馬に思いを寄せている。我らは、どこの馬の骨なぞという。かつて重要な高速交通機関であった馬も、斃れれば放ったらかしで、あちこちに野ざらしのまま、お骨になっていたのだろう。

 とにかく当日は上陸を果たした者だけで、最初の露営をすることになった。この日は後の展開からして、海軍と遭遇した日の翌日、5月25日の午前中と思われる。後続部隊との連絡のため伝令を出したが、一昼夜、戻らなかったとある。その夜、西天の一角に「電光雷鳴」のごとき火炎が上がり、砲声が響いた。すでに始まっていたのだ。南山の激戦が。




(この稿おわり)





軍馬の忠魂碑  (2016年2月10日、蘘國神社にて撮影)



















































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