正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

芦花公園  (第83回)

 
 しばらく「肉弾」の話題が続いたので、ちょっと趣向を変えてみます。徳冨蘆花の話題を出すのは、彼の小説「寄生木」を読み終えてからにしようと思っていたのだが、最近、別件で世田谷に行った際、少し時間があったので芦花公園に寄ってみた。そのときのことを記しておくことにする。あまり長時間は居られなかたので出直すつもり。旧宅の名は「恒春園」という。名にし負わば、さすが、梅が満開であった。 

 芦花公園は、徳冨蘆花が晩年に武蔵野で過ごした旧宅が残っている。隣接の普通の都立公園は、前にも行ったことがあり、今回も子供が遊び、大人が走っていたが、史跡のほうは今度が初めてである。事務棟があり、「有料ですか」と間の抜けた質問をしたら、女の方が苦笑いして「ただです」と気前よくお応えになり、簡単な案内までしてくださった。平日の昼間で私一人だった。写真は入り口右にある竹林。 

 徳冨蘆花の名は、単行本の「坂の上の雲」第五巻に付された「あとがき」に出てくる。文庫本には、同じ文章が第八巻に「あとがき 5」として収録されている。「あとがき」集には、作者本人による解説のような内容も含まれており、併せて一つの文学作品と言っても良いくらいの内容と分量を備えている。「一朶の雲がかがやいているとすれば...」の一節も、あとがきに出てくるものだ。


 さて蘆花の話題は、あとがきにおいて正岡子規と一緒に登場してくる。司馬さんのご尊父の書架に子規と蘆花の著書や、それらについての著作が多く並んでいたので「つい読みなじんだ」のが、司馬遼太郎の長い旅の始まりになった。

 この二人の明治文学者には、共通点と相違点があると司馬さんは考える。共通点からいうと、「彼らにとって後世であるこんにち、ただ一点である」と指摘も鋭く、その一点とは「かれらのものが読まれていないということである」。子規全集も蘆花全集も出ておらず、「ひらきなおった意味での栄光」という屈折した賛辞を寄せている。


 余計なお節介だけれども、子規全集については「ひとびとの足跫」に詳しいが、ようやく後に編纂されている。蘆花の全集も古本屋のサイトをみると、無いことは無い。ともあれ、先輩の鴎外や同年代の漱石と比べれば、読まれていないのは確かだろう。子規の場合は、司馬さん本人の貢献もあって、多少は読まれているだろうが、それも散文ではなく短詩とその評論が中心であることは相違ないと思う。

 なお共通点は、文学と直接関係はないものも拾うと、もう一つある。蘆花は子規の一歳、年上であり、真之と同い年である。同時代人なのだ。それなのに、「坂の上の雲」の小説本文には、私の記憶する限り、徳冨蘆花の名は出て来ない。少なくとも間違いなく、登場人物ではない。


 影響を受けた先達として二人の名を挙げながら、これほどまでに後年、関心の度合いに差が開いたのは、相違点のほうに起因するのだろう。十四五歳で「寄生木」を読んだ司馬少年は、あまりにつらい読書体験だったようで、この乃木希典に仕えた男を描いた本は、彼に「絶望を教えた」というから強烈である。

 それでもなお、蘆花の印象は、作者にとって「つい音信を怠っている故郷の叔父に対するような感じ」という暖色でいろどられたものであるらしい。もっとも、蘆花本人は決して単なる田舎の好々爺ではなく(晴耕雨読になったのはトルストイに会い、この恒春園を探し求めて移り住んでからだ)、幸徳秋水を擁護し「謀反論」を一席、打つなど怒らせると怖いお人でもある。

 
 この看板に出てくる随筆「みみずのたはごと」は、後半が子規の「仰臥漫録」と似て、日記のように時系列になっている。このため、明治天皇崩御や、乃木大将夫妻の自刃に関する記事も出てくる。

 第一次世界大戦関東大震災も、話題に出てくる。近所づきあいも盛んだ。蘆花は世捨て人になったのではない。これだけ人間に関心の強いお方が、隠遁できるはずもないと思う。芦花公園行きと前後して「不如帰」も読んだ。次回はその感想から、「肉弾」と「坂の上の雲」に戻ろう。



(この稿おわり)

























































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