正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

不如帰  (第84回)

 ホトトギスという鳥は、なぜそう読めるのか分からない漢字の名前をいくつか持っている。正岡子規は大喀血をしたとき、「坂の上の雲」にも出てくるように、口の中が赤いため血を吐くまで鳴くといわれる「子規」を号とした。柳田国男は「遠野物語」で、ホトトギスに「時鳥」という表現を用いている。

 徳富蘆花出世作「不如帰」も「ほととぎす」または「ふじょき」と作者がルビを振っているそうで、漢語の意味は「帰るに如かず」すなわち、もうお帰りになったらいかが、というものだ。ヒロイン浪子は、子規と同様、若くして結核を病み、嫁ぎ先から実家に戻されてしまうのだ。かわいそう。

 

 ずいぶん売れたようで、第百版の発行にあたり、蘆花は「巻首」において、この小説の主な登場人物には確かにモデルがあるが、それは事実関係の一部を拝借しただけで、人柄は関係ないと追記している。つまり、そう書いておかないといけないくらい、モデルは読む人が読めば誰だか分かり、性格が悪いなどと誤解されてはかなわないほど反響があったのだろう。写真は若き日の蘆花。

 読み始めてすぐ、片岡中将という浪子の実父が出てくる。これはきっと日露戦争の片岡七郎海軍中将であろうと思った。小説の人物も海軍である。ところが、途中でどうやら違うのではないかと感じたのは、巨漢であるというような描写が何度か出てきてからだ。実在した片岡中将は写真でみると面長で、少なくとも私にとっては巨漢というイメージではない。


 どうやらモデルは、大山巌将軍であるらしい。陸海の違いはあるが、なんといっても、その体格の形容として「大山厳々」という表現が出てくるし、彼の部屋にある書には「南洲」という署名がある。奥様(後妻)の海外留学経験や、赤十字との関わりも共通している。

 第一、時代設定からし日露戦争は関連が無い。「不如帰」は1998年から99年にかけて新聞に連載された。日清戦争の後で、日露戦争の前である。そして、物語の時代は、連載時の数年前にあたり、実際、小説の途中で日清戦争が勃発する。意外と戦争場面が長い。


 私は初めて電子書籍で本を読んだ。「不如帰」はKindleで無料だったし、青空文庫にもある。ただし、文語と口語(それも明治時代の会話が中心)が入り乱れている文体なので、そうスラスラとは読めないが、大長編ではないので、ゆっくりでも何日かあれば読了できると思います。

 蘆花は旅先で、この小説の土台になった実話の骨子を、たまたま宿を共にした婦人から聞く機会があり、「苦痛」のあまり「どうにかしなければなられなく」なって書いたのだという。ここでは、その筋に詳しくは触れない。「坂の上の雲」と「肉弾」に関係のある部分だけ抜き書きする。


 浪子の夫は海軍所属で、旗艦「松島」乗り組み。その恋敵の悪役は陸軍の軍人として、二人とも日清戦争に出陣している。先ほど大山巌がモデルと予想したものの、その大山将軍も出てくるので、片岡中将は架空の人物なのだ。すなわち、陸軍の第二軍が遼東半島に出征する場面に、「大山大将山地中将」が出てくる。第二軍司令官の「がま坊」と、第一師団長の「独眼竜」である。

 ただし、彼らの配下にいる乃木さんや、鴎外森林太郎秋山好古の名は出て来ない。まだ日清戦争の段階では、それほど著名ではなかったのだろう。なお、海軍に関しては例の樺山紀資さんが出て来て、軍令部長に任命されたことと、「いくさ見物」に出かけたことが書かれている。北洋艦隊に「ぺいやん」というフリガナが振ってある。当時そう呼んだらしい。


 恋敵の陸軍軍人は、金州と旅順で戦っている。この金州、この辺の地名に疎い私は南山と混同していたのだが、近くにはあるものの金州は城砦のある都市の名前で、南山はその名のとおり山だ。いずれも、遼東半島が真ん中あたりで砂時計のように細くなっている処に位置する。のちに大連と名付けられる港町にも近く、交通の要所なのだ。

 正岡子規は、念願かなってようやく従軍記者になったものの、第二軍の進撃ルートである金州と旅順を往復したころには、講和条約が成立していた。残念だったろうが、彼がこの帰路、船上で喀血し入院したことを考え合わせると、この程度の従軍で終わったため、その分だけ寿命が縮まらずに済んだはずだ。


 南山の戦いと呼ばれる日露戦争の陸軍による本格的な戦闘開始は、大雑把にいうと1904年の5月25日に金州の攻城準備から始まり、翌26日に南山の要塞を占領して終わる。すでに「肉弾」にも出てきたように、南山の激戦は夜まで続き、26日に機関銃で撃たれた乃木将軍の長男、勝典少尉は、翌27日に治療の甲斐なく他界した。

 乃木大将は「坂の上の雲」にも記されているように、第三軍出征のため東京から広島に移動中、私の生まれ故郷の静岡駅で、長男戦死の速報を受け取った。こんなに辛い出陣というものもあるまい。では、このあたりで一旦、徳富蘆花から離れて「肉弾」に戻ります。




(この稿おわり)





蘆花旧宅
(2016年3月3日、世田谷区粕谷にて撮影)














































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