正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

小倉口  (第85回)

 櫻井忠温著「肉弾」の第五章「上陸の危険」によれば、後に紹介する第二軍の報告にも出てくるとおり、軍隊の行動に支障をきたすほどの悪天候の下、著者の属する連隊は上陸を果たした人数だけでも、この地で最初の露営をすることになった。ところがその夜、南山方面に「火光砲声」が挙がり、そして激化する一方となった。

 このときまで黙然としたままで、部下をヤキモキさせていたらしい連隊長は、ようやく前進命令を発した。すなわち「第二軍司令官の指揮下に属し、南山に向かって急行せよ」とのお達しである。第三軍はまだ現地集合していない。そして、第二軍は想像以上の激戦に巻き込まれているらしい。


 大きな戦闘になった原因の一つは、旅順の守将の一人で、砲兵出身のコンドラチェンコ中将の献策によるものであると、「坂の上の雲」文庫本第三巻の「陸軍」という章にある。まだ開戦前のことだったが、遼東半島に敷設されている鉄道を日本軍に破壊されると旅順は立ち枯れになるため、ついては敵の侵攻に備え、その隘路たる金州・南山を要塞化すべしとステッセル司令官に掛け合った。

 ステッセルは「保留した」。そのまま保留しておけばよかったのに、先に旅順にやってきた日本海軍が砲撃を開始したため、慌てたらしい。命を受けたコンドラチェンコらは、1904年の2月から突貫工事を開始し、4月3日までにほぼ完工した。

 加えて日本軍が未着だったため更に強化、そして第二軍が5月にやってきたのだ。大本営は金州・南山が一日で落ちるとみていたらしい。理由は日清戦争のときは半日で落ちたから。十年経過し、今回の相手は世界最大級の陸軍大国である。


 少し時間をさかのぼると、第二軍の編成が明らかになったのは、3月15日であったとの記述がある。軍司令官は奥保鞏。司馬さんの表現を借りると、第一軍の黒木司令官や、第四軍の野津司令官は「いくさの名人」「名人芸」と形容されていて、戦国武将のように勇ましいが、第二軍の場合、「奥がいるなら安心」ということで何だか厄除け地蔵みたいだが、現場はそれどころではなかったのだ。

 奥将軍は別の箇所に出てくる逸話によると、耳がよく聞こえず、部下とは筆談で会話をしていたという俄に信じがたい話題が出てくる。砲弾飛び交う中で筆談も何もないと思うのだが、おそらく、もう総大将の出番は済んでおり、あるいはまだ来ておらず、たとえば闘いの最盛期に大山さんは新聞を読んでいたし、黒木さんは草原に寝転がっていたらしい。


 興味深いのは、この第二軍司令官奥大将と、配下の第四師団長小川又次中将が、二人そろって元の小倉藩士という経歴の持ち主であったことだ。小川中将はかつてメッケル大先生と意見が合わず「大激論」して譲らなかったという優秀かつ強情な人で、この南山の戦いでは「この惨烈極まりない状況をやぶった人物」としても紹介されている。

 小倉藩は譜代すなわち幕府側であった。だから「朝敵」「逆賊」にされた。ほかにも出羽さんが会津、立見さんが桑名、そういう出自であっても、ろくな近代教育さえ受けていないのに、国の命運をかけた戦場で旧敵の出身者が抜擢され、戦功を挙げている。ロシアはまだ士農工商的だったらしい。


 幕末の小倉藩も悲惨であった。「竜馬がゆく」に出てくるので読もう。文庫本では第六巻の「海戦」、時は慶応三年の第二次長州征伐が舞台になっている。主戦場は小倉口だった。馬関を渡れば長州第一の商港である下関にとどく小倉の城に、幕府軍の総帥、老中の小笠原長行がいる。幕府の主力艦隊も集まっていた。

 幕府軍はまず、東側にある長州沖の大島を攻めて占領したが、高杉晋作の軍に逆襲されて敗走した。この逃げた幕軍の主力が、伊予松山藩なのである。どうりで秋山兄弟や正岡の升さんたちが苦労したはずだ。高杉の船「オテントサマ号」は、勢いをかって下関海峡の敵本隊に、当時の海軍の常識ではありえない夜襲をかけた。助太刀で参戦したのが坂本龍馬海援隊である。


 陸軍の上陸部隊では、山形狂介らの騎兵隊が武士階級相手に頑張った。そんなとき第十三代将軍の徳川家茂が、数二十一歳の若さで和宮を遺して病死したという凶報が伝わり、腰が抜けたのか言い訳なのか知らないが、外見的には文字どおり、老中は敵前逃亡した。

 資料により肩書が異なるが、小笠原長行さんは筆頭老中で外国掛の重責を担っていたというから、そのとおりなら今で言えば総理大臣兼外務大臣、そして臨時の日本軍総司令官だろう。彼個人の責任云々というよりも、武家の親玉が政治を仕切る時代は終わっていたのだ。その象徴的な出来事の一つなのだろう。

 この小倉口の古戦場には、たまたま他の場所に滞在していなかった限り、若き日の奥保鞏や小川又次がいたはずである。敵側には山形有朋も、少し離れた戦場だったと記憶しているが乃木希典もいた。昨日の敵は今日の友。私たちの何代か前のご先祖は、こんな風に新しい日本を迎えつつあったらしい。この翌年、高杉晋作坂本龍馬は世を去っている。


 ささっと逃げた小笠原長行は、以前も取り上げた吉村昭彰義隊」にも出てくるように、はるか東北まで輪王寺宮を頼って逃亡している。残された息子も苦労したことだろう。この小笠原家は唐津藩主の家で、このあたりには源平の昔から水軍というか海賊というか、鼻息の荒い連中が海を住処としていた。そして小笠原家は代々、古典の伝承者でもあった。

 老中長行の息子、長生さんは、長じて海軍に入り、海軍兵学校で学んだ。一期下に広瀬、三期下に真之がいる。その秋山真之が腹痛で入院して暇を持て余していた際、小笠原長生は唐津水軍の戦法を書き記した古い文書を真之に見せている。この病人は、時代や地勢を超えて本質を掴む才覚があった。文庫本第三巻の冒頭に出てるエピソードで、書名は「能島流海賊古法」。

 
 最後に、私は何か月か前に、この小笠原長生の肉声を、古いレコードで聴いた。東京は九段の靖国通り沿いにある「昭和館」に保存されている大変貴重な録音で、小笠原さんの解説のあと、「わたくしは乃木希典であります」という名乗りが二回、収録されている。レコードの題名は「乃木将軍と其想出」。なぜか音楽のジャンルに登録されており、「歌手:乃木希典/小笠原長生」と表示されているのが可笑しい。

 乃木さんの声は、やや甲高いように聞こえる。これが当時の録音技術のせいなのか、乃木将軍も文明の利器を前に力んだのか、それとも地声なのかは知るべくもない。ただ、上ずっているのではないことは確かで、さすがは軍人、腹の底から声が出ている。南隣が九段会館内堀通りを少し歩けば千鳥ヶ淵と武道館。木立の中に大山巌元帥の騎馬像、通りを渡れば蘘國神社。腰痛持ちの私は、この坂が苦手なのだ。




(この稿おわり)





大山元帥像  (2016年2月10日撮影)





















(追加の写真: 4月3日、上野公園)










































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