正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

川中島  (第92回)

 先月、新潟の温泉に旅行に行ってきた。関東から行く場合、国境のトンネルを抜けると越後の国である。山が深い。上はその温泉郷で撮った写真です。越後といえば上杉謙信

 先週、長野の松本に出張に行ってきた。関東からは北回りの長野新幹線(今は北陸新幹線か)を使うか、西回りの特急あずさで行く。往路は北回りを選び、電車の中から撮った写真です。甲斐・信濃といえば武田信玄

 両者はこう言っては何だが、戦さが好きで、この川中島周辺で何度も戦っている。頼山陽川中島」では、駒を撃つ鞭の音も密かに、上杉軍は夜陰に紛れて渡河し、武田軍を急襲せんとした。しかし、霧が晴れてみると、千もの軍勢が見えた。大群であろう。長蛇を逸したのであった。

 このときかどうか、子供のころ読んだ絵本によれば、上杉謙信月光仮面のような白い頭巾姿で、豪胆にも単騎、甲州軍を襲い、敵将の信玄を大刀一閃、葬らんとするも、信玄あわてず騒がず、軍配で発しと受け止め、窮地を脱した。と、いうことになっている。実話かどうか知らないが、どうでも宜しい。歴史ものは絵にならなければ、話にもならないのだ。


 このブログでは、確か信濃丸が朝霧の中、気付いたら武田軍同様の大群すなわちバルチック艦隊に囲まれており、脱出しながら敵艦発見の急報を発信し、そのあとを猟犬和泉が継ぎ、単騎敵軍にまとわりつくところまでいった。

 これらの報を受けて、東郷さんの連合艦隊朝鮮半島を出陣、同時に対馬で待機していた艦隊も臨戦態勢に入った。対馬の尾崎浦は、かつて元寇に襲われたばかりか、幕末には半年にわたりロシア帝国の黒船が居座った。そのとき以来の仇敵が迫りくる。


 対馬で待ち構えていたのは、片岡七郎中将の第三艦隊。旗艦厳島、松島、橋立、そしてこれらと日清戦争で戦ったときは敵艦隊の柱だった鎮遠。これに第四駆逐隊の朝霧、村雨朝潮、白雲という歳時記の目次か、相撲の番付表のような名前が並んだ小型の艦隊で、鈴木貫太郎中佐が率いている。

 まずはこの駆逐艦隊が午前9時に敵影を発見、片岡第三艦隊に電信を飛ばした。彼らの役割は、吉村昭「海の史劇」によれば哨戒と監視、司馬遼太郎坂の上の雲」によれば、バルチック艦隊の「出迎え」であった。ロジェストウェンスキー鎮遠を見つけた場面である。


 吉村さんの本によると、米国の「サイエンティフィック・アメリカン」という雑誌は、戦艦の数や威力において日本はロシアの敵ではないが、わが海兵は「歴戦のつわ者」が揃っており、実戦経験で勝ると書いた。ハード対ソフトの対戦、その帰趨や如何に。

 迫りくる敵艦隊を前に、東郷司令長官が全軍に発した命令は、昼飯を食えというものだった。古来、腹が減っては戦ができぬという。戦艦松島の艦長、奥宮衛大佐は、古い小舟を並べて世界最大の艦隊に向かいゆく船上で、兵が浮足立っていないかを確かめに出た。


 東洋の「猿」どもは、奥宮さんの心配をよそに落ち着き払っていた。休息をとったり、相手の勢力や陣形を論じ合っている。たまたま通りかかった軍医が、薩摩琵琶の名手であったことを思い出した艦長は、琵琶を持っているかと訊いてみた。この戦場で、持っていた。

 先日のニュースで、日本国内でも象牙の取引が禁止されるかもしれないという報道があった。象の密漁が酷いらしいのだ。象さんは守らなくてはならん。他方で、私の実印は象牙だし、琵琶の撥も高級品になると象牙製もあるらしい。どうなるのだろうか。


 軍医は琵琶で「川中島」を演じた。朝霧の中、大群を前に洒落た選曲である。兵隊たちも、いよっという感じで声をかけて楽しんでいる。この場面は吉村さんの小説にも出てくるから、実物の記録があるのだろう。確かに、つわ者の集まりであったようだ。

 第三艦隊はお出迎えの役割を無事果たし、沖ノ島付近で東郷さんの本隊にあとを頼んで戦線を離脱した。ロシア艦隊は操船に劣り、この肝心な場面で縦隊を崩してしまい、東郷長官に「ヘンナカタチ」と呼ばれる態勢でやってきた。長蛇の日本軍は、敵前で回頭運動を始める。






(おわり)







松本駅より常念岳を望む。
(2016年10月5日撮影)










































.