正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

その人の足あとふめば風薫る  (第97回)

 先般、私はここで軍事好きの「坂の上の雲」ファンも、文学好きも、正岡子規の一面しか見ていないと大見えを切った。撤回しません。「坂の上の雲」にも同様のことが書かれている。新しい国家をつくった国民的高揚の中で、子規も「一枚張りのロマンチスト」になった。

 その具体例として引き合いに出されているものに、彼が新聞紙上で発表した「これが子規かとうたがれるほどに稚拙」な「駄句」で、たとえば「進め進め角一声月上りけり」が、やり玉に挙げられている。日清戦争のころで、角とは進軍ラッパのご先祖、ほら貝や角笛のことだろうか。「砲やんで月腥し山の上」というのもある。「生臭し」ではない。血の匂いの歌は、乃木さんにもあった。


 他方でこのころ、子規は芭蕉と蕪村の再評価を試み、作者曰く「かれのその後の評価を決定するあたらしい詩境」をひらき、「写生の妙をさとる」にいたり、「子規の句境の飛躍はこの時期に始まる」と評している。子規は芭蕉を否定したと短絡している人が、拙宅にも居て処理に困っているが、私の好きな子規の句の一つ、「その人の足あとふめば風薫る」にある「その人」は芭蕉のことだ。

 同時期に、子規は「鬱没としている」。戦地に行きたいのに置いてきぼり。一大事業たる「小日本」の廃刊。そして病。紅葉をハンカチに打ち付けていた頃だ。文庫本第二巻「根岸」に出てくる司馬遼太郎の子規観によれば、そういう「俗で非芸術的な鬱懐や不平というものが、芸術的もだえとまったく別なものであるという図式はかならずしも一人の人間の中では成立しない」。


 子規においては俳句のみならず、ようやく前回の続きになるが「従軍紀事」も、彼の散文(エッセイや旅行記や日記など)において、非芸術的で俗である事この上ないが、これも子規だ。なんせ従軍が終わり、血を吐きながらやっとで帰国し、入院や静養を経て一年近くもしてから新聞に書いているのだから、よほどご立腹だったに相違ない。

 題名は「記事」ではなくて、「紀事」である。そういう言葉はうちの辞書にはない。コトバンクには「編年体は年を主とし,紀伝体は人を主とするのに対して,紀事本末体は事件を主とする。」とあるけれども、子規は歴史書を書いているのではない。「紀」には、「すじみちをたてて記したもの」(広辞苑付録)という意味があり、この文章は趣旨としては、この「筋道」が適しているように思う。


 どうやら従軍できそうだという時期に、松山の恩人、叔父の大原恒徳に書いた手紙によれば、候補の近衛師団と大阪師団のうち、「方面はいまだいずれとも決定致さず候えどもたいがい大阪師団に付随致すべしと存じおり候」と書いた。なぜか司馬さんは言及を避けているのだが(大阪は地元なのに)、子規の予想は確率50%に耐えきれず、外れた。近衛師団に従軍したことは「従軍紀事」に何回か出てくる。

 近衛師団といえば、王侯貴族のガードマン部隊だ。子規の正岡家は、文庫本第一巻「真之」によると、江戸時代に「御馬廻役」であり、戦場にあっては殿様の親衛隊だった。ご先祖と同業者ではないか。子規も元気なら、好古隊長の騎馬の廻りをウロウロする役になれたかもしれない。従軍の決定が出て、彼は友人に「生来、稀有の快事に候」と無邪気に書いた。1895年3月3日、東京を出発している。




(おわり)






夜の梅
(2017年2月7日、大井町にて撮影)

































































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